音楽的な文芸作品

Sonnenfleckさんの、そのタイトルも清々しい『庭は夏の日ざかり』は、クラシック系の録音、コンサートの視聴記を中心としたブログです。相当お聴きになっている様子がありありで、マタイの録音評で「コンセルトヘボウのマタイといったら、クラヲタなら誰しも1939年4月2日のメンゲルベルクのライヴが頭をよぎるでしょう」といった表現が出てくることに端的に表れているように、クラシック通の人たちを念頭に置いて、賞味した演奏に関するご自身の率直な感想を語りかけるタイプの媒体になっています。

このブログに大江健三郎著『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』への書評が掲載され、思いがけないことに僕が2月に書いた同作品へのエントリーもご紹介頂きました。大江に対する独善的ないくつもの書き込みについては、若干小さくなりながらやっている部分もありまして、ですので、こうして取り上げて頂いたのはとても嬉しい限りです。

大江はあまり読んだことがないとおっしゃるsonnenfleckさんは、3ヶ月をかけてこの本を読み通したとお書きになっています。違和感を抱えながら読了されたsonnenfleckさんが、音楽にたとえればショスタコーヴィッチを連想させるとお書きになっている点は実に興味深く感じました。同時に、クライマックスでグルダが弾くベートーヴェンが出てきたことに対し大いにとまどったという記述には、我が意を得たりの気分。

それにしても、どきりとさせられたのは、このエントリーの結びのフレーズです。

しばらく再読したいとは思いませんが、Amazonのレヴューでしたたかに貶されているほどには悪くはなく、むしろ独特の「音楽的な」匙加減が意識されます。
でも、ベートーヴェンの最後のソナタをあそこで出してきたことによって、作者自身が音楽的な何かを目指した結果としてそのような印象を与えるのではないということが(皮肉なことに)証明されてしまったようでした。

音楽性という言葉を惹起する文学作品の作者が必ずしも音楽的感性を持っている必要はない。音楽的知識と感性とは別のものだ。これは様々な次の感想、連想へと誘われてしまいそうな指摘です。

■晴読雨読:大江健三郎『償wたしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(『庭は夏の日ざかり』2008年3月19日)