大江健三郎が政治・社会的発言をしなければ

大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』(2005年)を読んでいると、『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年)の複線とも言える、大江さんの変化が現れている。たいした話ではなくて、こういう台詞を大江さんは作中人物から長江古義人(=作中の大江)に向かって吐かせていたのを見つけたという話なのだが、今日はそれを紹介したい。

吾良さんは、きみが小説家になるとすぐ、エッセイや評論を、それも政治的なやつを書き始めたのを信用しないんだ。長江古義人が、政治的な課題について本当に関心を持つだろうか? 長江古義人はそういう人間ではないじゃないか? こういうことだね。そして、吾良さんがそのようにいう時、おれも心から賛意を表したんだよ。
そいていま、おれが考えるのはこうだ。きみの政治的あるいは社会的な考え方、あえていえば思想はね。その言葉使いにおいて……というのも、コギー、政治的・社会的な考え方・思想とは、つまり言葉使いのことじゃないか? ……すべてエリオットの一編の詩「ゲロンチョン」に発している。そのようにおれは考えるのでね。
(『さようなら、私の本よ!』第二章「エリオットの読み方」より)

開高健が亡くなった際、文芸雑誌に終生の親友だった谷沢永吉が「自分にとって残りの人生は余生である」と締めくくる弔辞的一文をしたためていたが、たしかその中でだったと思う、谷沢さんは「開高は政治問題について発言していたが、彼は政治のことをよく分かっていなかったと思う」という類のコメントをしていた。それを読んだ大江が、やはりその頃に発表された座談会の記録で、あの谷沢にすら、そう見えていたのか、と語っていたのだ。僕はそのことをたちまち思い出した。

ちなみに、吾良さんというのは、映画監督の伊丹十三(大江の義兄)になぞらえた後期大江作品の登場人物である。吾良=伊丹は高校生の頃からの大江の友人で、つまり、「子供の頃から大江をつぶさに観察してきた親友からみれば、そもそも大江の政治的な発言は二の次と言ってよいものなんだ」と主張しているように読める。大江の政治的態度を批判する人から見れば、「ずるいぞ! 逃げる気か!」とでも言いたく記述ではないかと思うが、僕は「それは大いに歓迎すべき発言だ」と感じた。大江は文学をやっている限りすばらしいが、政治的発言に移ると、そのとたんにその率直さが理解しがたいと映る。政治の話は専門家にまかせて、あなたには文学の話をして欲しい、と僕は思う。

先日、『アナベル・リイ』の感想を紹介した際、「暴力が音もなく幅をきかせる(大江的)世界にあって、四国の山深い大江の故郷に残る伝承と登場人物とが外国文学の読み取りを通じてダイナミックに響きあういつもの大江文学のスタイルはそのままに、どこか新しい趣が感じられるのは、そこに枯淡の味が加わったからなのではないか」と書き、「大江につきものの政治的なコノテーションよりも、文字的表現それ自体に創作の重心が置かれている。」と書いた。大江健三郎に対峙するのにあたって、お世辞にもさまになっているとは言えない下手な表現だとは思うが、おそらく大江さんは彼が行きたい方向へと着実な一歩を進め、長い読者の一人である僕は大江さんが受け取って欲しいような、率直で単純な受け取り方をしたのだと考えている。もっとも、『アナベル・リイ』の道具立ては、いつものように大江の故郷における一揆の話であり、暴力やグロテスクな性を交えないとお話が進まないという限りにおいては、昔ながらの大江健三郎ではあるのだが。