8月のカプリース

かつて批判的にブログで紹介した大江健三郎の長男、大江光さんの『大江光ふたたび』を聴いている。光さんは、『個人的な体験』以降の大江文学と大江健三郎の生き方にとって中心的な役割を担ってきた人物で、脳に障害を持って生まれ、5歳のときまで人語をまったく話さなかった。大江さんは光さんのために野鳥の鳴き声を紹介するレコードを聴かせていた。ある日、二人の散歩の途中、鳥の声が聞こえたとたん「○○です」と、レコードのアナウンサーと同じ言い回しで、光さんは彼にとって初めての言葉を発する。そのようにして、鳥の声を聞き分けることから音楽の世界、作曲へとコミュニケーションの回路を開き深めていった光さんの小品を集めた、二つめのアルバムである。

これもそのとき書いたとおりなのだが、このアルバムのトリに置かれている『8月のカプリース』は素晴らしい曲だ。この一曲のためにこのアルバムがあると僕には感じられる。そのテーマを聴くたびにどこか懐かしい土地につながった過去の思い出に浸るような気分にさせられるのである。演奏は、バイオリンの加藤知子とピアノ伴奏が海老彰子という一流のアーティスト。ごく単純な曲だけに、加藤のバイオリンはプロの技と感性を衆目に知らしめて圧倒的である。この楽譜を下手な素人が弾いたらとても悲惨なことになるだろう。

と書いておいて種明かしをすると「下手な素人」とは僕自身のこと。94年に聴いた親父(健三郎さん)の講演付きコンサートで楽譜が販売されており、自分自身ご丁寧なことだとは思ったが買って帰った。年に一度ぐらい取り出しては笛で吹いてみようとするのだが、自分がやってみるとまるでさまにならないのが悔しくて仕方ない。



大江光 「ふたたび」

大江光 「ふたたび」