ラトルのブルックナー交響曲第4番

この一週間、サイモン・ラトルベルリン・フィルによるブルックナー交響曲第4番を毎日のように聴いている。ラトルのブルックナーに一票を入れることになるとは思わなかったが、この演奏には今の自分に響くものが確実にあった。

ラトルをあまり好んで聴くことがないのは、ある種の先入観が邪魔をするからで、「別にラトルで聴かんでも」とマイルドな拒否反応を僕の音楽脳は起こす。現在、ベルリン・フィルに君臨するこのスター指揮者を実演で聴いたのは、もう10年ほど前のこと。一度は当時彼の手兵だったバーミンガム市響がニューヨークに来てマーラー交響曲第7番『夜の歌』をやったとき。このときは、一生懸命に取り組むバーミンガム市響の演奏ともども血の通ったマーラーを聴いたという覚えがあり、悪い印象はなかった。

次に聴いたのはフィラデルフィア管弦楽団とでシベリウスの5番の交響曲カーネギーホールで演奏したときだった。このときは面食らい、ラトルに但し書きをつけて接するきっかけにもなった。シベリウスの5番にそういう音符が書いてあるのか、と新しい発見をさせてもらったと言えば話は前向きになってよいのだけれど、会場で僕は「これって俺が聴きたいシベリウスじゃないぜ」と大いに不満を感じたのだった。その前後にニューヨーク・フィルベルグルントが指揮した同じシベリウスの5番は、まさに僕の持つこの曲のイメージを覚醒させてくれるような演奏だったのに対し、ラトルの演奏はシベリウスよりも指揮者を聴いたという印象を残すものだった。聴いたことがない、対旋律の浮上、ありえないバランス。こういうときに「邪魔をされた」気分になるのが、僕の心根の極めて保守的なところだ。そういう感情を刺激する演奏なのである。

しかし、彼の力を嫌でも認めざるを得ないような場面にも遭遇もした。同じフィラデルフィア管弦楽団とやったヤナーチェックの『イェヌーファ』のコンサート版。陰鬱な劇性を備えた、文学性の高いこのオペラを分かりやすく解きほぐし、説得的な結末に導く手腕に瞠目させられたものだ。このときは僕の方にこのオペラの知識がないのがかえって幸いしたのだと思う。だから細部の工夫はよく見えず、代わりに彼がエンディングに向けてドラマの流れを作り上げる手腕だけが目につくことになった。ラトルは創造的で、しかも的確な解釈力を備えた指揮者なのかもしれない。であるが故にということか、彼が誰もが知っているような曲をやると、どうも僕には彼自身の顔が前面に出すぎるように感じて不満を抱くことが多い。そんなに人と違うことをやらんでも、と思ってしまう。

で、たまたま聴いた彼のブルックナーの4番なのだが、案の定、他の指揮者と違う。第一楽章、弦のトレモロに乗って、ホルンが名調子を響かせる、そのメロディを弦セクションが引き継いで、ということろまでは「フツー」だとして、トランペット、トロンボーンが参戦して最初のクライマックスを作るはずのところで、「!」となった。普通の解釈では、ここはブルックナー特有の、金管のコラールによる強烈な光が差すところだが、まったくそうはならない。金管楽器群はおとなしく弦楽器に寄り添い、牧歌的なメロディが新しい音色を獲得して流れていくではないか。肩すかしもいいところである。ブルックナーの4番は、この静と動、柔と剛の対比が絶え間なく繰り返される曲だが、自分はそうしないぞというラトルの宣言を聞いた気分である。

本来ならば、ここですでに不満を覚えるはずだが、ともかく聴き通した。そして、時間の経過とともに、彼の一貫したポリシーに次第に説得される自分を感じ始め、終楽章を聴き終わったときには今回はしてやられたなとシャッポを脱いだ。

この曲、ブルックナーの作品のなかでは『ロマンチック』という通名で有名ではあるが、後期の名曲に比べると深みに欠けつまらないと僕は長年思っていた。最近でこそ、そういう不満を忘れてよく聴くようにはなったが、音楽がぶつ切りになる印象は小さくない。まさにその点をラトルは矯正するような解釈を試みる。彼の4番に一貫した流れをつくろうとする。それがこの曲に対して僕が持っている本来的な違和感を中和する方向に働いたというわけだ。ブルックナーだから、完全にはそうはならないが、ワーグナーの変転しつつとどまらない旋律のイメージに近づいたような4番といったら、ちょっと乱暴な比喩だが分かっていただけるだろうか。細部に我々素人でも容易に分かるラトルらしい工夫があって、当然、好き嫌いは分かれる。

ラトルがつくる流れは曲の終わりに向けて大河の様相を帯びる。巨視的に見ると、静から動へ、弱から強へと明確なコントラストを備えた曲の解釈なのである。第4楽章エンディング、鳴りに鳴るオケの重量感は最初の違和感を完全に消し去ってしまった。


ブルックナー:交響曲第4番

ブルックナー:交響曲第4番