よいこと

昨日のエントリーに対してEmmausさんから頂いたコメント。

たとえば、すごくいい演奏のコンサートにでくわす時が偶にあるわけですよ。
言葉にすると陳腐になる、感動の純粋さを保ちたいと思っていたでしょうか。コンサート終わってアンコールも聞かないまま黙って誰にも会わずに居たいという若い頃の昔を思い出しました。

二週間ほど前に読んだばかりの大江健三郎小澤征爾の対談でも同じ話が出てきたのでちょっとびっくりした。大江さんは友人であった武満徹のコンサートに行くと、誰にも邪魔されずにその感動を反芻したいが故に、いつも一目散に帰宅するのが常で、その態度を武満さんにからかわれていたというのである。

でも、よくわかる気がする。二十代までは、清水の舞台から飛び降りるような気分で外来演奏家の切符を買い、まなじりを決するようにしてコンサートに行ったっけ。最近はそういう熱を持ったような視聴はほとんどなくなった。でも、音楽を聴くことを止めることはないし、楽しむ仕方は変わっても、音楽を聴くことの楽しさということについては変わらない部分の方が大きい。

もっと若い頃は、「この曲はこの演奏が最高」という聴き方しかしていなかった。まだ知らぬ“最高”を見つけるための視聴というような態度。どうもレコードの時代に生まれ、生の音楽よりもレコードを聴いて育った僕は、この曲はこういう演奏、この人のこの曲の演奏はこうと、録音された過去の記録に縛られた発想を当たり前のものとしてきた嫌いがある。ところが、少しだけ歳をとって、その分だけちょっと心に余裕ができて、やっといろいろな演奏が楽しめるようになってきたのだと思う(もちろん今でも嫌いな演奏はちゃんとあるけど)。“最高”は、受け取る側の心の持ちようによって無数に存在している事実に気がついたということだ。近年、古い音源がCDになって発売される機会が増え、昔聴いていた演奏家も実際には時とところに応じて、あるいはそのときの感興に応じて、実に多彩な演奏をしていた事実に触れることにもなった。そう言えば、グレン・グールドは、録音の際、テイクによってまったく異なる演奏をしていたらしい。それぐらい、溢れるようなアイデアに満ちあふれていた人であったらしい。そんなことも急に思い出す。

ごく些細な話かもしれないが、こうしたことが、まだ自分には十分に理解しているとは言いかねる、年齢を重ねることにまつわる豊かさの一端であればいいなと切に思うのだ。