自分が本当に見たもの

今日読んだ村上春樹のある小説の一節から。

「話すのが、なんだか恐いんだ」と僕は言った。「ことばに出してしまうと、何もかもが平凡に聞こえてしまいそうでね」

昨日アップした丹沢の写真を見ていると、何もかもが平凡に写っているように思える。これは誰にでも覚えがあると思うのだが、写真にしたとたん、これは違う、自分が見た光景はこうではなかったという意識に襲われがっかりする瞬間がある。比較的よく写っているはずなのに、魂が抜け落ちてしまったような、もっとも肝心な部分が表現されていないような感覚を覚えて、こんな写真しか取れなかった、こんな写真なら撮らない方がよかったかもしれないと、内心後悔をするのだ。

ところが同時に、心はその画像に心が奪われ初めて、自分の感覚を修正し始めもする。そこに写っている風景は自分が見た風景。それこそが自分が見た風景だという風に。僕らはレンズやデジカメの性能が感覚を裏切ることを理屈では知っている。にもかかわらず、今度はいま自分が見ている画像に容易にしてやられてしまうのだ。

自分自身が見たもののクオリアを忘れないよう心に決めること。その執念が創造の源泉として作用することは写真でも、文字の世界でも変わらない。