尾瀬

尾瀬を夫婦で歩いてきた。連休の喧騒を外し、休みをとって月曜日から3日間。尾瀬に出かけるのは2回目だが、1回目は白馬岳とほぼ同じ24年か25年ほど前のことで、その時のことは、これも白馬岳同様ほとんど記憶に残っていない。季節は春で、天気が悪く、遠くの景色はほとんど何も見えず、それどころか常に薄暗く、濃い霧が漂っていたこと。ミズバショウの一群を自分の右手に見た気がすること。三条ノ滝という名瀑を見学に坂道を下ったこと。帰ってからしばらくして、高校山岳部の顧問だった恩師に「お前を尾瀬で見た」と笑われたこと。しかし、どこをどう歩いたのか、下ったはずの大清水への道がどんな様子だったのか、それ以上のことは何も残っておらず、それに、いわゆるクオリアの類がことごとく消滅していて、現実味がまるでないのである。今度旅をしてみても、その時の状況がよみがえることもなく、不思議な気がした。

昔行った山に2度続けて出かけた今年は、それを契機に記憶のことを考えさせられた。

記憶は人に自分が自分であることを意識させる。過去の自分が現在の自分を律するという風に作用するのが、自分のことを思い返す場合の記憶の働きだ。尾瀬の木道を歩きながら、素人は考えた。おそらく、社会を形成していること、人が人と人との関係の中で、役割を担って生きるようになったことによって、記憶の重要性は高まったに違いない。集団生活と記憶という機能の発達には直接の関係があるかもしれない。

社会を生きるのに必要な記憶の長さはどの程度だろう。自然は必要のない機能は発達させないから、20年という長さに個体差はあるとしても、昔の尾瀬を見事に忘れているのは不自然なことではないのだろうと思う。

ということは、記憶という機能からみれば、現在の私が私である時間の長さは、20数年よりも短いということだ。そして記憶という機能は年々減退するのだから、私が私であるために必要な過去の時間の蓄積はますます短くなる。そういうことになりそうだ。これは悪いだとか、悲しいなどといった価値判断とは関係ない話としてそうなんじゃないかと思う。それに私の価値判断は、「忘れて差し支えないんだから、どんどん忘れちゃえ」という感じで、そのうち私よりもブログの仲間を含めて周囲の人々の方が私のことをよく覚えているということになってしまいそうな気がする。





『写真帳』の方には、しばらくこの時に撮った写真を掲載させていただきます。
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