大江作品と邪悪な凡庸さ

実に久しぶりに大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』を読んだ。内容もほとんど覚えていなかったから初めて読んだに等しい再読だった。昭和33年、二十代前半の大江が描いた終戦間際の寒村に疎開して村人から阻害される子供たちの物語である。

後年の大江を知っているいま、若い頃から天才のように言われていたはずの大江ですら、初長編ではこの程度の物語を造形する能力しかなかったのかと、逆の意味で新鮮な驚きがある。しかし、飢餓や暴力、血、死、敵対、吐瀉物といった汚らしいもののオンパレードで人の神経を逆なでする道具立ては後年の彼に脈々と受け継がれており、数十年をかけて固く結晶していく方向に変化していった文体の美しさと好対照をなしているのが面白い。

いまの僕にとりわけ目につくのが、『芽むしり仔撃ち』に登場し、主人公たちと対峙する村人の非個性的な不気味さだ。村人の集団の中で、具体的に個人として描写がなされているのは、村長、鍛冶屋、医者の三人だけで、残りは顔がない黒子のように名前や顔のある個人としては記述されない。

この不気味な敵に抵抗を余儀なくされるのが「僕」を含む疎開してきた看過院の子供たちなのだが、これらの子供たちの中でも名前を与えられているのは「僕」とその「弟」、それに「南」という名の少年だけなのである。その後の十数人は、実は村人と同じで名無しの権兵衛、やはり書かれた言葉の向こうにおぼろげに存在するしかない印象である。つまり、いま具体的に指摘した登場人物以外は、濃い霧の向こうに見え隠れするような存在としてしか取り扱われていないという意味で、敵である村人も、見方である看過院の子供たちも、「僕」=作者にとっては物語の状況を形作る存在ではあっても個性をはぎ取られ、名のない人々の群れにとどまっているという意味では、ほとんど同義なのだ。

これを当時はまだ新人の域を出なかった大江の力のなさに理由があると読むこともできよう。実際、後年の語り口を思い起こせば、小説としての成熟度の違いは歴然としており、たんに「当時の大江健三郎はまだ小説が上手とは言えなかった」と結論づけて終わりにすることもできる。
しかし、ここにはそうした技巧論を越えた、大江が積極的に採用した型、もっと言えば、彼の基本的な世界観が表現されていると考えることも可能だ。僕は、最新作『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』と、ほぼ50年前に上梓された本作とを立て続けに読んだ印象から、そのことをくっきりと印象づけられた。

大江にとって、敵は声高に自説をがなりたてる「村長」とそれに追随する名前のない集団というかたちで成立している。同時に彼の味方は、彼を支援する、意志的で、有能な少数の個人を中心とした集団なのだが、リーダー格の登場人物以外の人々は霧の向こうにぼんやりと存在するしかない。後のあらゆる作品でも生きているこの構造は、すなわち彼が世の中を見る視線そのものを反映している。言葉としては言い過ぎかもしれないが、彼にはリーダーに従うしか能がないような、自律していない凡百の個人は、出る杭を叩きにかかる、個人の自由を阻害する、もっとも唾棄すべき存在なのである。大江にとってそれは悪意の温床であるように僕には思える。

凡庸さに対する静かな怒りの感情。凡庸な者たちが集団を形成することによって、個人を抑圧しにかかる社会のあり方に対する大いなる反発。反核に代表される彼の政治的なメッセージはとうに命脈が尽きているが、この社会の型に対する告発がリアリティを持ち続けるかぎり、大江は読み続けられると思う。

ただ、不気味で、ひたすら凡庸かに見える集団や大衆に目をこらすと、そこにはさまざまな人々の顔が見てくる。そのことに大江が無関心であること、心を閉ざしているとも思える冷淡さを示すことには大いに引っかかりを感じる。あなたが嫌いなその集団の中に、あなたの読者である「わたし」もいるんですよ、と思わず言いたくなる。僕が大江文学を愛しつつ、同時に嫌いな理由はそこだと思う。


芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)