バスケットボールの夢

このところの運動不足には自分ながらひどいものがあると、少々体への悪影響が心配になるほどである。通勤の際に、行き帰り20分ずつを歩くだけ。仕事の際に外出する際に地下鉄を乗り降りし、ビルとビルの間を歩くだけ。体と心がつながっているからだろう、どちらが鶏で、どちらが卵かは分からないが、ともかく運動することそのものが億劫で、「猫はコタツで丸くなる」状態に近いありさま。

少し前までは、休みとなれば、子供を連れ出してキャッチボールをしていたのに、末っ子が高校球児になって週末は常に練習に行ってしまうようになると、その相手もいない。一昨日の日曜日は、珍しく練習が休みで「素振りをし行くから、一緒に行かない」と向こうから誘ってくれたのに、一週間の仕事の疲れを理由にするのは本意ではないが、こちらが動きたくなくて、「寒いから嫌だ」と断ってしまった。

昨日、帰宅後、夕食を終わってテレビをつけたら、スポーツニュースの時間だった。全米プロバスケットボール(NBA)のオールスター戦が日本時間の昨朝にあった、その様子が映し出されていた。「今日、オールスターだったのか……」と思わず言ったら、ちょうどそのタイミングで帰宅した長男が「レブロン・ジェイムズがやばかったらしいよ」(御存知ない方のために注釈を付けさせていただくと、いまの若い子たちは「すごい」「すばらしい」の意味で「やばい」という日本語を使う)と応じてきた。

少し前までは、一生懸命NBAの試合をテレビ観戦していたが、最近はそうする時間と心の余裕がない。そこまで話題を広げても大江健三郎以上にこのブログをご覧になる方には受けない、興味のない方におもしろおかしく紹介する知恵もないと思い定めているので、これからもバスケットのことに言及することはしないつもりだが、アメリカのスポーツのなかでバスケットボールには野球以上に興味がある。ニューヨークに駐在している間は、ヤンキースを応援する倍、あるいは3倍ぐらいの熱意でニューヨーク・ニックスに熱を上げていたものだ。

そうやってテレビでNBAの映像を見た夜、起きがけに夢を見た。どこかの体育館で何人かの仲間とバスケットのシュートをして遊んでいる夢だった。フリースローレインの外側辺りの距離から何度もジャンプシュートをする。ところが、いっこうに決まらない。何度やっても、ボールはリングの縁に当たってバウンドしたり、それどころか、リングにかすりもしなかったり、無惨なものだ。無惨だな、嫌だな、と思えるぐらい、僕は夢の中で軽くドリブルしてはシュートを打つ動作を何度も何度も繰り返した。そのうち、2本続けてきれいにボールがネットを揺らした。「そうか、これくらい低い弾道がいいんだ」と思って、また試みると、しかしボールはどこかに当たってはじかれてしまう。一緒にいる仲間の誰かが「そんなに悪くない」と慰めてくれるのだが、こちらは気持ちが収まらない……。

目覚めた瞬間、長いことバスケットも、他のスポーツもしていないなと考えた。体が弛緩してしまい、足のバネがなくなってしまったいま、夢で試みていたジャンプシュートなんて、まさに夢の中でしか打てない。それから二つの方向に思考が動いた。一つめは、ここでさぼっていたら、もう少し年をとったときに体が動かなくなる、気をつけねば、ということ。もう一つは、死ぬときにはもっともっと体は動かなくなっている、というか、最後はすべてが動かなくなるのだけれど、心は若い頃とまっすぐにつながっているのだな、ということだった。それは素敵なことだと思った。

二つめの感想は、実は週末に読んだ大江健三郎の直接の引用とでもいうべきもので、あとで思い返すと、僕の心がそのときはそれと意識せずに、要は次の大江さんの文章を復唱していたのだった。

さきにお話ししたプラトンの『メノン』に出てくる対話の際のソクラテスは、その死の時より三年前に設定されているようです。つまり、ソクラテスが六十七歳のころになりますから、大体、いまの私の年ごろです。そのいま、はっきりわかることはですね、なにより大人と子供は続いている、つながっている、ということなんです。これが、いままで生きてきた私が、もし子供だった半世紀前の自分になにかいってやることができればいいたい、いちばんの秘密だ、と思うくらいです。
さらに、自分の生きていたやり方がまちがていた、と考えることになったら、そこで死んでしまったりしないで、生き方をやりなおすことができる。それは、さきに大切なこととしていったとおりです。少し難しくなりますが、それも自分の新しいつながりを発見することだと思います。
しかし、基本的には、つまりたいていの人にとっては、子供の時から老人になるまで、自分のなかの「人間」はつながっている、続いている、と考えていいと思います。そしてはそれは、自分ひとりのなかの「人間」が、日本人の、そして人類の全体の歴史につながっている、ということですね。私の母は、そのことを私に教えてくれたように思います。
大江健三郎『「自分の木」の下で』より)

この子供たちに向けてやさしい言葉遣いで書かれた本書は、大江の奇体なグロテスク趣味や入り組んだ言葉遣いに辟易される方にもお薦めしたい。彼が小説をつくることをやめて、分かりやすい言葉で伝えるメッセージは、彼の小説にはないクリアなレトリックの幹が露出し、それでいながらその主張には薄められたところなどどこにもないと感じられる。今まで、子供向けであることと、奥さんの手になる表紙や挿画に辟易して手にしなかった本だった。予想していなかった豊穣な内容に驚かされた。

大江と個人的な関係がある谷川俊太郎も、人間は年輪を重ねる木のようなもので、子供の頃の自分がずっと芯にあるのだという趣旨の詩を書いていたと思うが、大江も、そのことを生きてきてつかんだもっとも大きな秘密というほどに強調している。そして、さらにはそれが人類の全体につながっているとも述べている。人間はそうした言葉に助けられたり、鼓舞されたりする。それは素晴らしいことだとあらためて思う。


「自分の木」の下で

「自分の木」の下で