大江ワールドと「気持ちいいアメリカ」

今日も「気持ちいいアメリカ」の続きになる。圧倒されつつ、うんざりされつつと、いつもながら複雑な気分の読書を余儀なくされる大江健三郎。いま読んでいるのは2005年9月発行の『さようなら、私の本よ!』であるが、この本に登場するのは最近の大江本におなじみの長江古義人(ちょうこうこぎと=大江健三郎)、アカリ(=長男の光さん)、塙吾良(はなわごろう=大江の義理の兄である伊丹十三)といった彼自身や彼の身内をそれと分かるように模した人々である。さらに回想や引用によって、その他にも彼に近しい数多くの有名文化人の名前が出てくる。伊丹十三同様、これも常連である篁透(たかむらとおる=武満徹)は別格として、その他にも石原慎太郎のことだとすぐに分かる「知事」の話が話題になったり、開高健がべ平連に関係した「蟹行」という名前で登場したりと、まあ、賑やかなことである。

そんな中に建築家の「荒さん」という名前がある。勢川びきさん(id:segawabiki)のアメリカ報告四コマ漫画を読んでいた最中、僕はニューヨークの美術館で「荒さん」とすれ違った経験を思い出した。ほんとうに数十秒といってよい時間、何の展覧会だったか忘れたが、グッゲンハイム美術館のフロアで、建築家の磯崎新と並んで歩くようになったのだ。周囲にも多数の人々が同じ方向に流れていた。そんな中に数人の米人や日本人と一緒の荒さんこと磯崎がいた。歩く速さを落とし、彼をやり過ごすようにして「ほら、磯崎新だ」と女房に小声で教えたのをよく覚えている。あの「荒さん」だと大江の本を抱えながら思った。

好き嫌いはさておき、大江ワールドの独特さは、彼の有名文化人好きと言ってしまってはあまりに薄っぺらい批判になるが、ともかく世に名の知れた一部の高尚な人々と、架空の人物も同時通訳の名手として生計を立てながらドクターコースにいる女性だとか、東大が馬鹿らしくて退学したインテリの若者だとか、知的に優れた文系文化人またはその予備軍ばかりが登場することにある。世間一般とはまるで切れた世界なのだ。ときどき平和運動をやっていたり、社会問題にかかわるボランティアをやっている善良な一般人が名もない端役で顔を覗かせることがあるが、そうした例外を除けば一般大衆は大江の批判勢力、彼をかたくなにさせる困った存在として不気味な顔を見せるのみ。彼の小説世界は、それ自体として見事に完結しており、僕が見知っている日本とは見事に切れているのである。

それ故に、グッゲンハイム美術館で大江ワールドの住人である「荒さん」に出会ったのは、大江ワールドの裂け目からその登場人物が生身の人間として降りてきたのに行き当たったほどの、大江読者にとっては破天荒の出来事だったのではないか。その場面から十年以上経った後の事後解釈だが、そんな風におもしろおかしく思ったりもする。

大江健三郎の得意な文化人世界を読んで、それによって魅入られたり反発をしたりするひとつの理由は、それらの文化人が一般大衆とまったく切れているからだ。もし、磯崎新が普通に一般人の前に姿を見せる人であれば、あるいは大江自身がそうであれば、彼の小説世界が我々に向けて発散する独特のにおいは違ったものになるだろう。日本の社会にはそれによって身分が定められるような階層がない民主社会だが、その実、普通の会社の中にさえ階層を演出してはばからないのが日本の社会である。あらゆる組織は、組織の中に実体的な階層を作り出し、それをバネに生きているとすら言える部分を有している。

これに対してアメリカでは普段会えない人に会える機会が日本にいたときよりも格段に多かった。どうしてそうなのかを考えると、僕の場合が偶然にそうだったのではなく、ポピュリズムといった言葉が意味を持つような国=アメリカでは、何れの国・社会にも存在する、だからアメリカにだってもちろん存在している実体的な階層を越える“ポーズを示すこと”に社会が暗黙の意義を認めているからではないかと、何の傍証もないのだが、僕自身は感じている。おそらく移民国家アメリカ、人種差別問題を抜きにして国の歴史を語れないアメリカでは、そうした面での儀礼が日本では考えられないほどに発達しているのではないか。もしかしたら、“ポーズを示すこと”だとか、儀礼という言葉は皮相で、ここで僕が言いたいことに即して言えば、少々ふわさしくないかもしれないかもしれない。言いたいのは、そういうことが制度化され、多くの人々の生活の中で当たり前の行為として内面化されているということだ。

そのような、社会自体が持つ構造が、アメリカ人の内面に影響を及ぼし「気持ちいいアメリカ」を形作っているのだとすれば、百年前には黒人を人間とは思わない人々が大多数だったところから、黄色人種である日本人の駐在員にすら「気持ちいいアメリカ」と言わせるような社会が形成できるのだとすれば、我々が意思を持ち、それを表明することには重大な意義があるのだと考えざるを得ない。ここで環は大江健三郎が生涯に出会った本の中でももっとも影響力を持った一冊のひとつにあげるアメリカ文学の傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』につながっていく。しかし、いま「ハック」に言及することは、残念ながら僕の知識と忍耐力の限界を超えている。


さようなら、私の本よ!

さようなら、私の本よ!