大江健三郎著『大江健三郎 作家自身を語る』

数週間前に会った友人から、「偶然二冊手に入ってしまったので、もしまだ読んでいないのであれば」と頂戴した本。2007年5月末日の発行になる本書、インタビュー本と聞いて、読みやすくはあるが通り一遍の内容を想像していた僕は大間違いだった。掛け値なしに素晴らしい本だ。帯には「作家生活50年を語り尽くした、『対話による自伝』」とあるが、まさにその言葉が誇張ではなく感じられる。自伝的と言えば、やはり最近読んだ村上春樹の『走るとことについて語るときに僕の語ること』も実に印象的なエッセイ集だったが、大江本の重みは半端ではない。

書名のとおり大江健三郎が何日かのインタビューを通じて自らの作家人生を語った本だが、新しい本が出るたびに、そこに新しい展開を刻んできた大江さんならではのインタビュー集である。というのは、小説やエッセイとは異なる形ではあるけれど、読み手に向けて新たな思索に誘う言葉があり、今までに書かれてこなかった新しい情報の提示がある。「聞き手・構成」を担当しているのは読売新聞で大江さんを担当してきた尾崎真理子という人で、この方の聞き手としての知識と技術が素晴らしい。大江さんがまさにしゃべりたいことを引き出すリード役として、これ以上の方はなかなかいないのではないか。

この本を読んで何かを感じるためには大江さんの著作に通じている必要があるため、読者の広がりが期待できる本ではないが、ここで語られているトピックに寄り添って、あるいはトピックに邪魔されずに、その向こうに見えてくる大江さんのメッセージをつかまえることができる者にとっては、様々な感慨へと誘われる著作である。

一つひとつを取り上げながら、コメントをしてみたい話題がページをめくるたびに出てくるようで、もしかしたら、読む方の興味を無視して、このブログでそんなことをやり始めるかもしれない。僕には中年の大江健三郎のイメージがあまりに強く、その大江さんは、端的に言えば批判に対して「ムキになる人」として僕の中でイメージされている。ところが、この数ヶ月の間にやっと読んだ今世紀になってからの彼の「レイト・ワーク」にもまったく同様の感想を持ったことを思い出すのだが、このインタビュー集の大江さんが自身を語る仕方はあまりに率直で自然であり、そのことに僕は大きな感銘を受けてしまった。すぐに「ムッとする」といった自画像を含めて、本人の過去と現在を語るさまは、肩の力が抜けているという表現はこういうときに使っていいものかどうか分からないが、ともかく80年代までの大江像を気持ちよく壊してくれる闊達さと優しさに満ちあふれている。

ごく分かりやすい一例として、このブログの中で素材とした、それだけに僕にとってはやはり印象的な村上春樹に対するコメントを引用したい。

芥川賞候補になった村上春樹さんの「風の歌を聴け」を評価されなかったのはなぜでしょう。

私はあのしばらく前、カート・ヴォネガット(ジュニアといっていた頃)をよく読んでいたので、その口語的な言葉のくせが直接日本語に移されているのを評価できませんでした。私は、そうした表層的なものの奥の村上さんの実力を見ぬく力を持った批評家ではありませんでした。

(「大江健三郎、106の質問に立ち向かう」より)

村上さんに関しては、このほかにもこれ以上ないであろう讃辞が活字となっている。
このように歳をとりたいと思ったし、最近の著作の読後感をも含め、歳をとることは素晴らしいとも正直思わされた。そう言うのは単なる小手先のレトリックとしてではない。一週間かけてゆっくり読む読書の間、本当にそうしたことを何度も考えた読書だった。


大江健三郎 作家自身を語る

大江健三郎 作家自身を語る