ともだち

一昨日でかけた金城さん(id:simpleA)主宰の会「わいわい」で、16人お見えになった皆さんのうち、お二人が金城さんと幼稚園のときからのお友達と紹介された。それはすごいと素朴に驚いた。僕自身は子供の頃に引っ越しをしたために小学校低学年以前の友達とはその後の人生でつながりを持つことはなかった。長い友達関係は、それだけで十分な価値の証明になっていると思う。

そこまで長期の関係はないにせよ、学生時代からの友人関係はかけがえのないもので、僕の場合には高校時代のそれが自分の生活における人間関係のベースになっている。逆に言うと、それ以降の人生の進み行きの中で長く続く関係ができ、それが維持されていく経験はとても限られていたということでもある。日頃、職場で仲良くしている間柄同士が10年、20年と続くことは希だし、家庭ができたりして、一定の人間関係のしがらみがそれなりに重たくなってくるということも一方にあるからだろうが、自分から新たな友達を見つけようという目的意識は発動しなくなってくる。少ない数の、でも長く続く人間関係があればそれで十分と考えるようになるのは人として自然の成り行きだ。

ところがまったく意図をしていなかったことであるのに、ブログをやり始めてコメント欄で意見交換をすることが始まると、新しい人間関係が自然と育ってくる。これに類することはもう何度か書いているだが、昨日のエントリーで「友人関係」という言葉を使ったことに自分自身が促されて、あらためてその不思議について思いをいたすことになった。これが、本当にいわゆる友達と呼ぶような間柄へ進むには互いに歩み寄りを促す契機や努力が関係を媒介する必要はあるとは思うが、そうした最初のきっかけを、中年になってからこうした形で手にすることになったのだから、やはりブログは不思議のメディアである

僕が「友人関係」という言葉に込める意味には若い頃の思い出が作用しており、家族間の強さは別として、少々の軋轢では壊れない、たとえ個別の話題で意見がぶつかっても本質的なところで相手を認め合う態度が揺るがない、友達とはそういう関係だと理解している。では、ブログからそうした関係が生まれ得るのか。Emmausさん(id:Emmaus)が、下記のエントリーのコメントで、この点に関してずばりと指摘なさっている。

■Emmausさんとのひととき、またはブログの悦楽(2008年3月2日)

生き生きとしたダイナミズムとしての良い意味での忌憚のない意見交換が成り立ちにくい、もっともいうと人間の親しみとしての<悪態をつく>ことが単なる中傷や批判だけになってしまうのがネット・コミュニケーションの欠点でもあるという、話だったのです。

僕もブログやっていてその点は強く感じる。自分が書いている文章が、それを読んでくれる相手にどのように届いているのか、ある程度のところまでしか理解できないのが自分というものである。そうであるが故に、互いに了解できるコミュニケーションのルールが必要になる。ルールと同時に共通した儀礼の意識、規範意識が醸成される。そうしたものが自然とできてくるには、このブログに関してももう少し時間がかかるかもしれず、その間に小さな軋みが生じることはあるかもしれない。ブログに限らず社会関係とはそういうものだから、そこを必要以上に怖がってしまってもいけないが、書く技術を含めた難しさをブログが内包しているという意識を持ち続けることもやはり大事だと、自戒の意味を含めて思うところだ。