生きることとともにあるブログ

この前のエントリーに対して勢川さん(id:segawabiki)、Emmausさん(id:Emmaus)に有り難いコメントを頂戴した。また、いつもお読みいただいている皆さんからのたくさんの☆も。勢川さんがおっしゃる「「立場」や「仕事」をそぎ落としても残る自分の人生そのもの」という言葉、Emmausさんがおっしゃる「生きるセンス」という言葉、あるいは「直接社会に与えるものがない人達も息を吐く心得があるのを見ています。終末の方もその心得(感性・理念)を日々ささやかでも新たに求めているのですよ」というフレーズを拝見し、お二方の言葉の重たさを噛みしめている。

先の文章を書いたのは、端的に自分自身にまつわる目下の経済活動のことばかりが念頭にあるなかでだった。それも、ある種の価値観に一面的に絡め取られたまま、そのとき頭にあったことをするすると自然に出てくるままに文章にしてしまった。アップした後に、こういうへろへろした文章を出すのは、よいのか、悪いのか分からないという気持ちがやってきたのも白状しておく。しかし、ほんとうに思いがけず「なにをおっしゃる」という勢川さんの強い調子のコメントを頂き、それを目にしてどきっとし、ダメ押しのようにEmmausさんの強烈なメッセージに身がすくむ思いをしたのだから、悪いことは一つもなかったと、いまははっきりポジティブに考える。こうして、与え、与えられるコミュニケーションのあり方、それもそれがメッセージをやりとりする当事者以外にも開かれている、誰もが当事者として参加できる可能性が開かれているブログの醍醐味にあらためて感じ入りもする。すごいことだと思う。

このようなものとしてブログがあるとすれば、何も疑うことはない。ただ、その際に、自分自身と流儀として忘れてはならないこととして、常にこの場所をオープンで開かれたものにしておくよう心がけること、半歩だけであっても自分自身が前に進む気持ちを携えてあることを肝に銘じておきたいとも思う。そうでなければブログはあっという間に自己満足だけの場所になってしまうかもしれず、自分自身を生に駆り立てる装置ではなくなってしまうかもしれないから。