ネットとリアルの風通し

有り難いことに、昨日のエントリーにも一昨日に引き続き、再度Emmausさん(id:Emmuas)、勢川びきさん(id:segawabiki)からコメントを頂いた。お二人のコメントを拝見しながら、ブログを書くということについていくつかの考えをめぐらした。

一つは心構えについて。「人は自分にとって切実なことのみを書かねばならない」と言った文人が誰だったか忘れてしまったが、ブログにせよそうした心構えとまったく無縁のところで言葉を垂れ流していてはいけないのではないかということ。いけないと書くのは語弊があるとすれば、真摯な文章にはそれに見合う反応を持って迎えられる可能性が広がっているのではないかということ。そういう意味では、一昨日のエントリーは一方に転べば見向きもされなくなるような、きわどい文章だったと思う。

二番目に、そうした表現を可能にする書く技術について。たぶん、僕の思い過ごしでは決してないだろうと思うのだが、Emmausさんも、勢川さんも、巧みに言葉を選んでコメントをくださっている。そう感じられる。ブログでもメールでもそうだが、文章によるやりとりでは、相手の顔つきや、顔色や、声の調子といったものが見えないだけに、メッセージを受け取る側の解釈の幅は対面のコミュニケーションに比べて広がってしまう。誤読の危険性も増える。であるが故に、文章を書く際には、こうしたお気楽ブログですら乾坤一擲の気合いが必要だし、それ以上に書く技術が求められるということなのだと思う。お二人のコメントには人に接するということのデリケートさをあらためて感受できるようなサムシングを僕は強く感じたが、そうしたものを封じ込めるのも技術だ。

三つ目は、それらのきわどさへの反省の上にある話である。昨日のコメントの中で、お二人が僕とリアルの世界出会っていて、どんな人間なのかについてそれなりのイメージがあったから声をかけてやろうという気になったと語っている。その部分について。考えてみれば、お二人のおっしゃることは間違いなくそうなのであって、おそらくブログ上のつきあいだけでは声をかけにくい限界を突破してお二人はメッセージをくれたのだと考えるのが自然だ。この点も、ブログの可能性という視点に立って考えた場合の、ある種の示唆を含んでいると僕は考える。これもそうあらねばならないという窮屈なものではないが、つまりネットとリアルの間は風通しをよくしておいた方が、受け取れるものも格段に増えるのではないだろうかということである。

ブログをやり始めたときに、この行いを通じて誰かと知り合うということを期待していたということはまったくなかったのだけれど、結果的にブログはネット上の井戸端を形成し、それはリアルの歓談の場へと自然とつながっていった。そこで出会った皆さんに支えられている実感が、こういうリスクをとるのも悪くないですよと言いたくなる気分へと誘うのである。