自分は自分ということ

しばしばトラックバックをしてくださる『koichiro516の日記』の中村孝一郎さんについては、「光技術の専門家らしいな」ぐらいの認識しかなく、多くの若者のロールモデルになると梅田望夫さんが一押しするような、その分野で誰もが認める飛び抜けた人物だということについては、最近までまったく知らなかった。いつもながら迂闊なことである。

■中村孝一郎(『My Life Between Silicon Valley and Japan』2006年5月21日)
■「三顧の礼」で迎えられた男(梅田望夫『シリコンバレーからの手紙』)


ある分野で一流の仕事をしている人たちと巡り会うのもブログの楽しさであり、驚きだが、僕が本当に驚いたのは、その中村さんが最近のエントリーでご自身の夢について語っている部分を読んだときだ。

俺の目標は、技術者としてとことんやった後に、いつかは高専の教壇に立って、「エンジニアリングがいかに楽しいものか。でもその楽しさがわかるまで、いかに厳しいところを通り抜けなければいけないか。」ということを、次の世代に伝えていきたいということ。
こういうことを人に話すと「高専の先生はもったいない、大学の方がいいよ」とか言われるのだが、やりたいことがそれなんだから、とやかく言われる筋合いのものでもない。また、「高専の先生だったらすぐになれるんじゃない?」とも言われるが、なる(to be)とやる(to do)はまったく違うものだ。俺がやりたいことをやるためには、まだまだ修行を積まなければならない。
(■定理を使って解いてなんぼ 『Koichiro516の日記』2008年3月23日)


学生時代に優秀な友達やクラスメートがいなかったわけではない。それらの人たちの現在を見ると、誰もが納得する社会的な要職についていて、「あぁ、やっぱり」と言いたくなるのである。もちろん、それが悪いと言っているわけではない。それどころか気持ちはその正反対で、みんな自分の才能を活かして世の中のためにがんばっているなと頭が下がる気持ちがする。ただ、「やっぱりあいつは、あいつの志と努力と能力の結果として、そういう仕事をしているな」と思える点、昔なんとなく想像できた未来を生きているということを思うと、当時、彼ら自身と我々周囲の持っていた世界観に齟齬はなかったのだと言ってよいと思う。

ところが、中村さんは技術者としての自分を究めた後に高専の先生になりたいとおっしゃる。これには驚きつつ動かされるものがあった。何に感じ入ったのかと言えば、第一に、その目標の自分らしさということについて。世間がどうこういうからというのではなく、あくまでご自身がそこに価値を認めるからという信念の存在に有無を言わせない力がある。世の中の停滞感が、むしろそうした“新しい人"を生み出し始めているのではないか? 第二に、そこにつながっているのが人を育てるという行いであることについて。世の中捨てたものじゃないなと、あらためて思った次第。三つ目を挙げれば、どうも世の中複雑になっているぞ、という僕自身にとっての新たな現状認識の到来についてで、あらためて今は変革期なのだと、これからは多くの葛藤を抱えながら社会は次の段階に向かっているのだと感じざるを得ない。

中村さんの欲望の持ち方の、世間に媚びないオリジナリティという点に関連して思い出すのは、こちらに書いた「Aさん」のケースだ。

■逃走の先(2007年2月12日)


「Aさん」の欲望の持ち方は中村さんとはまた異なる方向のものだが、他人に媚びない強さという点ではまったく同じものを感じることができる。これらの人々が活躍することによって、よい意味での「他人は他人、自分は自分」という価値観が育ってくるのは、僕たちの社会にとってとても素敵なことではないかと思うのだが、どうでしょう?