アンジェラ・ヒューイットの平均律第2集を聴く

Emmausさんとそのお仲間の皆さんにお誘いいただき、アンジェラ・ヒューイットでバッハの平均律第2集を聴いてきた(タケミツホール 4月20日)。ヒューイットの平均律の録音はイギリス・ペンギン社の有名なクラシック録音ガイドがこの曲の最高ランクをつけているもの。僕はこの録音自体は聴いたことがないが、彼女が弾く他のバッハの演奏のCDは知っているので、僕自身の趣味とはちょっと違うぞと少し警戒しつつも興味津々ででかけてきた。

タケミツホールには、これまで聴いたなかでもっとも叙情的でダイナミックな平均律が鳴っていた。たしかペンギンの評では、現代ピアノの可能性の限りを尽くしたバッハだと、そうした誉め言葉が掲載されていたはずだが、なるほど、その言葉にまったく違和感がない。ダイナミックレンジが広く、あるフレーズと次に出てくる別のフレーズとが異なるニュアンスで演奏されると、それらが対話を行っているよう。それに加えて根本的に、この曲にはポリフォニックな旋律同士の対話が埋め込まれており、実に多弁な、あれこれと揺れ動く人の心のありさまを音にしたかのような演奏である。

ある時は決然とメッセージを述べるがごとく、あるときはくぐもった声で独り言をつぶやくがごとく、ヒューイットの指先からは多種多様なニュアンスが生み出される。そのフレーズがそういうニュアンスに仕上がるのかと、演奏者の解釈に舌を巻く気分になることもしばしば。最初の和音が左手でずんと鳴らされ、それに対して右手の旋律が思いがけない余裕をもったテンポで追随してきた瞬間から、この多弁なバッハは聴衆を飽きさせない。まるでベートーヴェンが始まったのかと一瞬面食らったほどのインパクトだった。コンサートホールで、楽しみのために聴くバッハとしては、まったく悪くない。満場の喝采もむべなるかな。

でも、これはハレの場所で聴くバッハ。現代の聴衆としての僕は、平均律をデジタルプレイヤーに入れ、街を歩くとき、電車に揺られるときに聴く音楽として愛好している。生活のバックグランドに鳴る音楽としてのバッハ。そういうものとして聴く場合、ヒューイットの平均律はおそらく情緒過多に過ぎる。この日ご一緒させていただいたEmmausさん(id:Emmaus)から「平均律の録音は誰が好きですか?」と尋ねられ、特定の思い入れのある演奏家はないとお答えしたが、デジタルプレイヤーに入れて持ち歩いてきたのは、グールド、リヒテル、ケンプといったところか。第1集がピアノ、第2集がチェンバロキース・ジャレットもいい。どれも肌合いの違う演奏家だが、それぞれの仕方でこれまで散歩の友になってくれた。つかず離れず寄り添ってくれる随伴者という感じで。ヒューイットの演奏は、そうしたかたちで付き合うのは難しそう。でも何年かに一度、特別なものとして聴く演奏としては決して悪くない。