Emmausさんのひと言がバッハ演奏と宮大工の話を結んだ

昨日のエントリーに対してEmmausさんから頂いた「信頼」という言葉がどうやら核心的にキーワードらしい。音楽の演奏に限らず、あらゆる創造的行為、ビジネスを含めたあらゆる創造は他者への信頼がその根底になければ立ちゆかない。Emmausさんはアンジェラ・ヒューイットの、ダイナミックで雄弁なバッハに対し、「要するに『そこまで細かくバッハを表現しなくてもいいよ』という印象でした。もう少し、バッハの音楽そのものがもっている明瞭性と精細性自体を信じていいのではと思いました」とおっしゃるのだが、僕の想像は宮大工の菊池恭二さんの話につながっていった。

昨年見たNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』に菊池恭二さんという現代最高の宮大工が登場した。そのなかで「宮大工の棟梁は、携わる建築物の屋根の反り具合を自らの手で決定する権利を持っている、それが棟梁にのみ許される特権だ」という趣旨の話が紹介されていた。番組は初めて棟梁を任された菊池さんのお弟子さんの仕事模様を丹念に追ってたいへんに興味深かったのだが、屋根のカーブについてその若い棟梁が呻吟するようにして最終決定をする様は実に印象的だった。

来宮大工という仕事、あるいはもっと一般的に職人さんの仕事は、後世に「私の作品です」と名前を残すものではない。過去から培ってきた伝統的な技を踏襲し、その継承者として最大限の力を発揮することを求められているのが宮大工の仕事。その中で、しかし、屋根のカーブという重要な一点に関しては、宮大工自身が個性を発揮することを許されるのだという。その伝統に感銘を受けた。職人にとって求められているのは長い年月を経て引き継いだ建築の知恵と技術を最大限に発揮して堅牢で隙がない作品を作ること。個性を発揮することは本質的には重要ではない。しかし、その中で、一点のみ、しかし、それは建物の概観に決定的な影響を与える一点として、屋根のカーブを決める権限は棟梁に与えられている。棟梁は数百年を生きる建築物に決定的な影響力を行使するという、その責任の大きさ故に多大の苦しみを背負いながら、そのデザインの最終決定に至る。

この番組を見て、伝統と個性の融合ということを思わずにはおれなかった。現代の我々の目から見れば、職人のシステムには個性の発露を二の次とする、伝統的な知恵の集積への信奉が目につくのだが、それはつまり、先人の知恵に対する信頼ということなのだということに、僕は昨日のEmmausさんのメッセージを通じて行き当たったようなのである。個性とはそうした知恵をはぐくむ中心から離脱する遠心力だとすれば、個性を育む伝統と個性との微妙なバランスについてもう少しまじめに考えてみる必要がある。


■棟梁の器は、人生の深さ(NHK『プロフェッショナル』2007年6月12日放送)