“アンチ・カラヤン”が消えた二つ目の理由

“アンチ・カラヤン”が減った最初の理由が彼の肉体がこの世からなくなったことに由来しているとすれば、二つ目は時代がカラヤンを乗り越えて前に進んでいったことに求めてよいだろうと思う。カラヤンの先進性、新しいことに対してアグレッシブで完璧主義、ビジネスマンシップに富みテクノロジーに先見の明があるといった彼のライフスタイルは、今の時代ならば若者からお手本として崇められるような類のものだ。いや、崇められるなんて言うのは大げさにすぎるばかりで、当たり前の前提と思われてしかるべきなのかもしれない。

音楽的には古楽が聴衆の間で際物以上の存在として認められたこと、カラヤンのように人と違うことをやること、自己主張をすることを美徳とする音楽家が普通の存在になったことによって、カラヤンの音楽はいつの間にかオーソドックスの部類の入るようになってしまった。ある日、久しぶりにカラヤンの録音を聴いた僕の耳は、ほんとうに彼の演奏がオーソドックスな、あるいはある種の古さの色合いを帯びているのを聞き取り、あれあれと思ってしまったことだ。

カラヤンの音楽に対する違和感がもっとも顕著に表れるのはモーツァルトベートーヴェンだと思う。少なくとも僕にとってはそうで、「カラヤンって、なんて味がない」という印象は、この二人の作曲家の作品の演奏に対する印象から与えられたものだ。アンチとか言いながら、実はそれ以外の作曲家になると、僕はカラヤンを好んで聴いていたのである。リヒャルト=シュトラウスシベリウスシェーンベルク、それにご当地ドイツものではブルックナー。すぐに思いつくままに書いただけで、これらの作曲家の作品になると、僕は何の疑念もなく、何の文句もなく、カラヤンを聴いていた。

これがベートーヴェンになると、カラヤンの爽快感溢れ、つややかに光沢が乗ったような肌合いの音楽がフルトヴェングラーワルターを聴いた耳には嘘っぽく響く。同時代の指揮者でいえばベームが本物で、カラヤンはインチキなんじゃないかと思える。「ジェットコースターに乗ったような」という悪口が通用した時代だ。

ところが時代は変わり、いまや指揮者があっけらかんと人と違うことを追求する時代になった。演奏は伝統技能ではなく、芸術ということになってしまった。サイモン・ラトルが指揮するブルックナーの第4交響曲、その邦盤のライナーノートに、「この曲を録音するにあたって、同じベルリンフィルを振ったカラヤン、ヴァントといった先達の演奏がありながら、あらためて同じ曲を同じオーケストラで録音することの意味を考えた」という類の(この表現自体はうろ覚えで、言い回しは正確なものではない)本人の発言が紹介されているのを読んで、ラトルに対する違和感の所在をあらかさまに教えてもらった気がしたし、現在の演奏家の立ち位置をある種の同情とともに理解することになった。

ともかく、今リリースされているCDで最新のベートーヴェンの録音を数枚ピックアップし、それら聴いてみれば、カラヤンがオーソドックスに聞こえるという感想を共有してもらえる可能性が高いことは疑いない。ベーレンライター版のような新しい楽譜が流行っていることも含めて、「違う演奏、新しい演奏、個性溢れるを聴きたい」という聴衆の欲望を前提とし、それを増幅ことによって存在するクラシック音楽産業は、実に危うい存在である。今回、カラヤン交響曲の録音が、一枚当たり300円といったバーゲン価格で販売されたことは、カラヤンが憎たらしかった時代の終わりを告げる象徴的な出来事である。冗談抜きで『クラシックが亡びるとき』なのだと思う。

というわけで、いまやオーソドックスで安心して聴くことができるカラヤン交響曲全集、まだお求めになっていないすべての皆さんにお勧めです。