“アンチ・カラヤン”が消えた一つ目の理由

昨日のカラヤンに関するエントリーには、kanyさん(id:kany1120)から次のようなコメントを頂いた。

町のCD屋で購入できる交響曲はだいたいカラヤン指揮のものでした。だから、こういうふうな経緯があって、アンチという人もいるということが新鮮です。

「アンチな人もいる」というフレーズが、自然な世代間ギャップを示してたいへん興味深い。70年代後半、長島が引退し、王に往年の迫力がなくなって思い通りにホームランを打てなくなるさまを見ながら「王と長島がいないプロ野球なんて想像できないなあ」と呟いていたアンチ巨人の僕にしてみると、大して憎たらしくもなくなってしまった読売巨人軍には未だに「アンチな人もいる」らしいのに、カラヤンへの身勝手な反感はあっという間に消えてなくなったこと自体に、なにがしら心が和む部分がある。

kanyさんの言葉は僕が今頃「カラヤン全集」などを買うことになった理由の一面を言い当てているのでもある。カラヤン嫌いを標榜していた連中のうち、強面の何割かは別にして、僕のような軟弱なアンチ派は典型的に「嫌い嫌いも好きのうち」だったのかもしれない。

“アンチ・カラヤン”には、「カラヤンの音楽が嫌い」と「カラヤンの人となりが嫌い」の二つの構成要素があって、多くのアンチ派にとってはこの二つが分かちがたく結びついていたために、彼が存命の当時は、自分がどちらの要素を中心にカラヤンを忌避するのか、実は見えなくなってしまうという側面があった。

ところが、本人がこの世から退出し、あのあくの強いしゃがれ声がメディアに乗って聞こえることもなくなると、人間性云々について悪口を言う人たちが減り、カラヤンがどんな人なのかといったゴシップが世間から消えていく。『巨匠神話』を書いたノーマン・レブレヒトのように、あまりにビジネスライクな彼の一面を死後も面白おかしく暴き立てたがる人はいるにはいるが、残された者たちの大半にとっては、あの世に移った人物の悪口を追いかけることに大きな興味はない。残るのは膨大な録音だけ。そうなったときに、「音楽だけだったら、いいんじゃない」、「けっこういいじゃん」、それどころか「カラヤンいいじゃん」という声が多勢になるのは不思議ではない。

あちらに行ってしまった人に対し、人は優しい。そこには人が人として生きる上での基本的な知恵が働いていると思う。これは皮肉でも何でもなくて、本心からそう思う。裏返すと、生きている人間同士の影響の磁力がいかに強烈なものであることか。彼・彼女がいまどこかにいると考えるだけで、人はその人から影響を受け続ける。社会性の根源には、人の心の繊細さが常に存在している。


巨匠神話

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