録音と生演奏のこと

先日、tsuyok(id:tsuyok)さんとご飯を食べながら楽しいおしゃべりをした。会話は互いの趣味が重なり合う音楽とその周辺を飛び歩き、飽くことがなかった。

印象深かったのは、「録音は音楽ではない。少なくともそれは生きた音楽ではない」と言い切るtsuyokさんの生の演奏に対する思い入れの強さである。tsuyokさんは、他人に対する行き届いた配慮をお持ちの方で、状況や言い方によっては少し角が立ちそうなこの言葉も、その場の温かくて、楽しい雰囲気のなかで立ち上がったものであることは明記しておいた方がよいと思う。でも、ご自身で打楽器を演奏なさり、編曲もするtsuyokさんにとって、それが常に心にかけている真実の表現であることは、とても率直に受け止めることができた。普通、そうしたフレーズは簡単に口をついて出るものではない。

僕はtsuyokさんとは少し異なる切り口でこのことをとらえている。二人の会話の後、分かれて数日してから、そんなことに気がついたので、この場に書き記しておく気になった。つまり、あれとこれとの境目をtsuyokさんは生演奏と録音に置いて語ったが、僕は感覚の屈折点は、聴くことと演奏することにあるのではないかと感じている。「私は聴く人、演奏家よ、演奏しなさい」と言う安全な立場に身を置いて聴くか、「私も演奏する人、その道の名人よ、どうか聴かせて下さい」あるいは「私も演奏する人、負けてたまるか」と感じながら、聴くかで演奏の新鮮さ、聴く際の身構えはまったく違う。だから、自分が(ちょっとだけ)弾ける楽器の演奏に対しては息苦しいほどの緊張を覚えたり、そこまでいかずともアンテナの立ち方が違っていたりする。

こうした意識の持ちようの違いは聴く際に、演奏をする意識が紛れ込んでいる聴き方をしているかしていないかの違いから発生していると僕は考える。つまり、問題は自分が弾く人の側にいるのか、そうでないかの違いで、生の演奏には、この点で意識を刺激する部分が録音に比べて大きいという点が肝心なのではないかと思う。生の演奏に接すると、演奏の心得のある人は無意識のうちに自分も弾いているのだ。その気持ちを録音に比べて、より直裁に刺激されるのではないかと思う。あくまで常に聴く者の、安全サイドに身を置いた視聴であれば、もちろん音響的・視覚的な利点はありこそすれ、たとえ生演奏でもtsuyokさんのようにそれが「生きた」音楽として認識されることはないような気がするし、逆に演奏する者の知識と感性とが備わっているケースでは、いつかどこかでなされた演奏の記録である録音にも「生きた」ものを感じ続けることが可能ではないか。

ちょっと、そんなことも感じるという話である。tsuyokさんとは「また会いましょう」と握手して分かれた。