ディベートをめぐる勢川びきさんの漫画、大江健三郎、浅田彰

勢川びきさんが、「ディベートのできない日本人」をテーマにしている。面白い。我ながら思い当たるところが大ありだから。すぐに“感情的になって”相手をやっつけようとしたり、必死の防戦に回ったり。その時間が過ぎ去ったときの気持ちの行き場に困ることは年に一度、二度というもんじゃない。職業生活や海外生活を通じて、そういう場にある程度は慣れたつもりではあるのだけれど、自分で「大人げないな」と思うことはあるし、相手を見ていてそう思うことも、またしばしば。きっとじじいになっても、ムキになって子供と議論しているんじゃないだろうか。それ以上に、ふつうに議論をしているつもりが、相手をムキにさせることの方がどうも多いのが現実かもしれない。やはり、日本では人は黙ってにこにこしているに限るのだ。

■ディベートと冗談(『勢川びきの×記』2008年3月12日)


最近読書を続けている大江健三郎が、実はそうしたカッとくるタイプの人であるという話はよく聞いたことがある。噂話なので、どこまで本当で、どこから誇張が入っているのか分からない類のものではあるが、ただ、最近の小説やエッセイの中で、大江さんは他人の言葉にすぐムキになったり、ムッとしたりする自分を登場させているのだ。それを読むと、噂の素になったような体験をした人はきっといるのだろうなと考えてしまうし、一方で自分の欠点を率直にネタにする最近の大江さんの度量の広がりには読者として敬意を払いたいとも思う。

ところで、この話の先に浅田彰が出てくる。僕もこのブログで大江さん本人が見たら端的に「ムッ」とするだろう光さんの音楽に対する批判を書いたことがある。同じことを考える人は当然多いと思うのだが、浅田彰坂本龍一が、やはりそんな内容のディスカッションをして活字になったことがあるらしい。そのことをたまたまウェブで見つけた浅田自身の文章で知った。ところが、この浅田さんの文章がいい。光さんの音楽に対してシビアな見方をし、その結果大江さんにその作品『取り替え子(チェンジリング)』の中で公然とそれと分かる批判されたことを紹介しつつ、こともあろうに、その批判に批判で返すのではなく、その作品と作者とを「そう、大江健三郎はいまなおわれらの作家なのだ」という最大級の誉め言葉で賛美しているのである。

これぞディベートの精神。見事なものだ。浅田彰の株が僕の中で一挙に上がったのは言うまでもない。


■浅田彰【大江健三郎の「取替え子」】



取り替え子 (講談社文庫)

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