足るを知る

江藤淳のエッセイを読んでいたのは血気盛んな高校生の頃だからずいぶん昔の話だが、その頃に出会った一文に『足るを知る』というのがあった。ごく短いエッセイだ。「足るを知る」というのは『老子』に出てくる言葉だそうで、「足るを知る者は富めり」という文章がその32章にあるのだそうな。江藤淳は、そのエッセイの中で東京文化会館の話を取り上げていた。音楽ファンの中には東京文化会館の音が悪いと不平をこぼす者が多いように聞くが、世界の音楽ホールの中で理想的な響きを体現している場所など実は限られるほどしかない。あれだけの音がするホールを駄目だといって一蹴するのは心の貧しさにつながる。足るを知らなければならない……。うろ覚えだが、老子のフレーズをそのように解釈した内容だったはずである。東京文化会館はエッセイの枕で、政治的に暑かった1960年代の日本社会に物もおす一文だったと思うが、肝心の部分は覚えていなくて、「足るを知る」という言葉とホールの話だけが心にとどまっている。

『ウェブ時代 5つの定理』を読み始めてすぐに思い出したのは、江藤さんのこのエッセイのことだった。米国IT業界のビッグネームたちの姿勢は、「足るを知る」ことを主張する江藤さんとなんと違うことだろう! 冒頭に紹介されているゴードン・ベルの一文を読んだ瞬間から僕はそのことを考え始めた。

この本によって鼓舞される瞬間を持つ者は、常に足ることを欲しない、そういう自分であることを希求する人たちだ。梅田さんが日本の社会の前面に登場し、『ウェブ進化論』、『ウェブ時代をゆく』が歓呼の声で迎えられたのは、それを可能にする時代と社会の要請があったのであり、ある種の必然が働いたのだと言って差し支えないだろう。そのことはとてもよく分かる。

ひるがえって、あらためて自分のことを考える。僕は梅田さんの主張から置いてきぼりにされる人たちのことをこれから考えながら生きることになる。なぜかと言えば、第一に、厳密な意味では自分が典型的にそうだから。若くはないし、IT技術のことなど分からない。職業的な成功とは関係のないところで生きている、年齢的には終わっている世代の一員なのである。そうした意味合いにおいて、それを余儀なくされる。第二に、勉強ができない子供を持つ親としても、そのことを考えざるを得ない立場でもあるという意味において。

そのときに江藤淳が書いていたような、現実に満足し幸せを見いだす心の持ち方をどのように考えるかが、僕がこれからブログを書きながら、というよりも長く生きていきながら、自分の生の実践に直接結びつけて考えていくべきテーマになる。江藤が書いた現状に満足するイデオロギーシリコンバレーの先導者たちのポリシーとは180度異なるように見えるが、江藤は「足るを知る」といいながら偏執狂的に戦後・戦前の政治史の詳細を追っていた人物でもあった。彼の言っている意味において、それは怠惰に生きるということとは違うということだ。