肉体は魂を裏切るけれど

ご承知の通り、先週、大江健三郎著『沖縄ノート』の集団自決に関する記述をめぐる訴訟のニュースが大きく報道された。その際に、久しぶりに大江健三郎がテレビカメラの前で話をするのを目にしたのだが、急に老人になってしまった大江さんに出会ってびっくりした。このブログで大江のことばかり書いているのを知っている友人の一人が、2,3年前に成城の街で光さんを真ん中にして歩いてくる大江夫妻とすれ違ったんだけれど、と先日メールで教えてくれたのだが、最初の瞬間には、その老人が大江健三郎だとは気がつかなかったのだという。テレビの映像を見て、記憶のうちにある人物との齟齬にとまどう気持ちと同時にメールの文面を思い出し、友人がそのとき言いたかったことを初めて理解できたような気がした。

自分の肉親のことを思えば、人は誰もが等しく歳をとるのであり、そのことに何らの不思議はないのだけれど、それに比べると自分の心の中に存在している世界の像ははるかに保守的である。それは思いの外静かに、一定の姿のままにたたずんでいるのではないかと、老人の大江健三郎を思い出しながら考えた。世界は絶え間なく変化しているのだけれど、自分自身はそれを本当には理解しようとしていないのかもしれない。

翻って思いが向かったのは昨年出版され、このブログで何度も話題にした『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』のこと。あの若々しい気概の満ちあふれた作品を書いたのが、先日テレビで見た重たそうな肉が付いてきた老人だとはとても信じられないのである。端的に僕はそう感じてしまい、あらためて自身の頑迷な世界観に呆れると同時に、魂のトレーニングを欠かさなければ、人の想像力は長く生き延びるという事実を目にしたように感じられた。僕は大江作品を読みながら常に壮年の大江健三郎を思い浮かべてしまうのだが、それは決して間違っていないのだと思うし、むしろ『個人的な体験』を書いた二十代の大江を思い起こしたとしても、まるで不都合はないはずなのである。先日、これを書いて、コメント欄でEmmausさん(id:Emmaus)に活を入れられたときの気分を再び思い出した。