開高健のチョコレート

ブログで「この曲はいいですよ」「この演奏は素晴らしかったですよ」という類の感想を書き散らかしても、人の感性は十人十色。自分が言っていることにどれだけの客観性が宿っているのかと振り返ると、たしかなものはどこにもない。おおよそ日常生活でも、「この人はこういうことを評価する人、こういう趣味を持っている人だ」という一定の認識がないかぎり、善し悪しの判断ほどすぐれて個人的で、数多くの人の目に触れる場所で話すのがためらわれる話題はない。だのに最近、このブログはその種の話題が増えていて、これは客観的に見れば、感性のどこかが壊れ始めているのではないかと少々心配してもよさそうな気配だ。他人事のように書いてしまうと、そんな風に言えるのではないか。

有名な音楽や美術作品ならば、それが多くの人の耳目に触れる機会があるだけに、評者の立ち位置や感性、能力も判断しようがあるが、これが誰も知らないものを相手にするとなると、本当の善し悪しなどまったく分からない。判断のしようがない。ただ、その評者の人格に成り代わるようにして、活字になったものを信じ、活字自体を楽しめるかどうかが問題となってくる。筆者への信頼こそすべてだが、これはこわいことだ。

作家・開高健の食に関する文章はそうしたものの典型だった。開高さんの食い物談義につきあうと時間は幾晩あっても足りない気配と相成るが、いま僕がたまたま思い出したのはチョコレートの話。典型的な辛党である開高は甘い物の話はほとんど書いていないが、チョコレートについては、たしか安岡昇平と出かけた欧州講演旅行のなかで出会ったベルギーはブリュッセル郊外のレストランで口にしたという温かいチョコレートのデザートの話を、一度となく、二度となく書いていて、それが彼にとってよほどのものだったらしいことが分かる。

いま手元に資料がないので紹介できないけれど、エッセイではその森の奥にぽつんと存在していたと書かれているレストランの固有名詞も紹介されていたはずなので、その気になればそこが知る人ぞ知る存在なのか、それとも誰もが知っている超有名店なのかもすぐに分かるはず。それ以来、開高はチョコレートと聞くとその記憶が疼いてあちこちの有名店のものを食さずを得なくなり、しかし結局それ以上の高揚は覚えることがなかったと書く。ごく素朴な文章、対象がチョコレートという素朴な食材だけに印象に残る一文である。

では僕が、その場所に出向いてその特上の一品を食べたいかと言えば、むしろそれはしないでおきたいとも思う。僕にとっておいしかったのは開高の文章であって、彼が食べたチョコレートではないと思うから。人の感覚ほどあやふやで掴みがたいものはない。ある体験が自分にどのように作用したのかという記憶を疑うことはできないけれど、モノそれ自体に何かが見えるかどうかはその人の、そのときの目、耳、舌次第。感覚は風のようにそよぐ。あるいは波のように揺れる。面白い。