『冬の旅』− 極北の音楽

大江健三郎小澤征爾の対談『同じ年に生まれて』で小澤が次のように語っている。

小澤:何で音楽でコメディーができたかというと、音楽の根底に、あなたは笑うと思うけど、人間が持っている情というものがありますね。
大江:はい。
小澤:その情というもののなかには、ちょっといつも悲しみというのがあるんじゃないか。寂しさとか。日本語で悲しみというと、なんかお涙頂戴みたいになるけど、そうじゃなくて、日本人だけじゃなくて人間が持っている本姓、要するに、芸術が人間の生きていることに交わるとき、どこかにある寂しさとか悲しさ。人間には必ず死ぬという宿命がある。生まれた瞬間にだれかと別れなきゃいけないとか、会えば必ず別れというものがあるとか、そういう寂しさもあるし悲しさもある。人間の情というもののなかに必ず悲しみがあるとすると、音楽は、理屈なしに、それを出すのに一番手っ取り早いものを持っていたんじゃないか。音楽の響きのなかにそれがあるんじゃないか。そうすると、それがあったからこそ今度はそのなかから楽しい音楽というのがでたんじゃないか。

その発言が理屈として美しいかどうかは問題ではない。そうした地平を越えたところで、小澤さんの経験と直感とが言わしめた言葉に、これを読んだ僕は率直に反応した。

そして、そうしたもっとも自然な心の動きから遠く隔たった、だからこそ人間の心の深さを知らしめる音楽、シューベルトの『冬の旅』のことを思った。これは悲しみではなく、苦しみが音になった世界。心が苦しいときにこの音楽を聴くと癒されるのは、世の中で灰色の空を眺めているのは自分一人ではないと、聴く者に確信を与えるからに違いない。人はそのようにして、共感という感情によって慰められ、勇気づけられることもあるということを僕はこの曲から学んだ。聴くたびに、シューベルトという鋭敏な魂を携えた人物が隣にいると感じられる、そのような曲。