スウェーデンで体験したクラブのひととき

以前の仕事でスウェーデンに行ったのは西暦2000年。そのときに生まれて初めて「クラブ」なる場所を体験した。

日本にもあるでしょ、そういう名称の施設が。銀座や六本木なんて場所にたくさん。近年は類としてさらに進化を遂げて“キャバクラ”なんてものも増殖しているわけだが、このとき連れて行かれたのはその種の飲食業・風俗業の類ではない本物のクラブである。連れて行ってくれたのは、この旅のコーディネーションでお世話になった彼の地の大学の先生、エリック。連れて行かれた場所は高速列車でストックホルムから半日の距離にある自動車産業で有名な街。クラシック音楽ファンには、優秀な交響楽団の本拠地としても名が知れている。

この日は朝から仕事だったが、夕刻前には完全に身が自由になる予定だったので、こういうケースが訪れるたびに毎度そうしたように、かの有名なオーケストラが聴けないかとあらかじめエリックに尋ねてみた。しかし、あいにく僕の滞在中にコンサートは開かれていないとのこと。残念がっていたら、その夜にはぜひ父親のクラブに招待したいというお申し出をいただいた。もちろん、ありがたくお受けした。

とは言え、こちらは浅学の士であるから、実際には何に誘われたのかよく分かっていない。「クラブってなに? どういう場所?」ってなもんである。根掘り葉掘り尋ねる手もあったはずだが、相手はさも当たり前のように、「父親が属するクラブに」としか言わないので、こちらもくどくどと説明を求めることはしなかった。しかし、後で僕なりに理解したことだが、それはその組織を紹介する仕方としては非常に洗練され、かつオーソドックスなやり方だったのではないかと思う。どういうことかというと、エリックはクラブの代わりに彼の父親のことを誇らしげに教えてくれた。もともと土地の工業大学の先生で、学長というのか、総長と呼ぶのか、ともかく学校を代表する地位につき、地元の有名企業の役員にも名を連ね、この街では名士である彼の父親。要は、そういう社会的地位を備えた人が所属するのを許されている閉じられた社交の場、そういう場所に僕はお招きいただいたということなのである。それ以上の説明は野暮ということなのだ。

完全に暗くなってからエリックの運転する車に乗って僕は街のはずれにある、その場所へと連れて行かれた。小高い丘の中腹、家よりも樹木の方がずいぶんと目立つ土地を緩やかに上っていった道の角にその建物はあった。灯りもほとんどない、森の中と言ってもよいだろう閑静な一角で車を降り、高見にある大きな一軒家に向かって階段を上っていくと、日本でもアメリカでも見られない古く頑丈な木のドアがあり、そこをくぐると本物の木の匂いと、しっかりとした分厚い家具と、クラシックな暖炉とが目に入った。ソファにもたれて読み物をする人、静かにトランプ遊びに興じる人ら数人の姿がその部屋に溶け込んでいる。東京で暮らしていて足を踏み入れたとたんに安らぎを感じられる空間というのはそれほどない。僕が見たスウェーデンのクラブとはそうした場所だった。その後日本に帰ってきてから、企業の持つ都内の「クラブ」を使う機会があった。空間のしきり方やソファやランプなど調度品の配置から、欧州のクラブを知っている人物が、それらを模したらしいことは一見して分かったが、その安物らしさというか、形を真似て魂がおいてきぼりになったような芝居の書き割りのような様子に心がしらじらとなった。僕が見た東京のクラブは、横に和服姿の女性従業員がいる単なる社用のレストランなのである。

スウェーデンの話に戻ると、それらの老人たち−おそらく土地ではそれなりの人たちのはず−に軽く会釈をして2階に上り、食堂で待っていたエリックのお父さんに挨拶をした。あらかじめ与えられていた情報から目つきの鋭い痩身の紳士を思い描いていた僕だが、握手をしたのは中肉中背の好々爺然とした人物で、そのとき僕は少しほっとしたのではなかったかと思う。それから3人でした食事のメニューについても、長く続いたおしゃべりの内容も、何も覚えていない。ただ初対面とは思えない、とても楽しい会話があったこと、欧州と日本を行き来する文化論のような内容が含まれていたことをかすかに思い出すばかりだ。見事なホストだった二人の親子は、僕を最初から和ませてくれ、お終いまで飽きさせず、最後の握手には別れがたささえこもっていた。

これが僕がただの一度だけ体験した欧州のクラブの話である。