東京夏の陣

新宿は歌舞伎町の雑居ビルの屋上にある巨大テントの下にアジア料理の屋台が集まっている。タイ、ベトナム、インド、ネパール、インドネシア。日本もあったな。倉田さん(id:atkura)が御存知の、ちょっと怪しく、しかし十分にくつろげる猥雑な原色の空間でのシュンポシオン(饗宴)。このブログで見知った仲間の集まりも、主宰者の趣味趣向で毎回それなりに異なる色合いが生じるのが面白い。

我々が陣を張ったのはインド・ネパール料理の店で、店員さんもそちらの出身とお見受けする風情の方々である。その、彫りの深い顔立ちの人たちに向かって、「生もうひとつ!」、「梅酒ちょうだい!」などと日本語で注文をしていると、なにか妙な感覚、ある種の既視感に似たものが立ち上がってきた。そのときは話と酒に夢中で、“既視感に似たもの”はすぐさまどこかへ消えていった。おしゃべりと、熱気と、笑い声と、沈思と、それらに紛れて気配はやってきたのと同じ素早い足取りで通り過ぎてしまった。

会がお開きになり、皆さんと別れた後の電車の中でふと思い当たるものがあった。

欧州に行くと、アメリカ人の観光客やビジネスマンが、母国で生活するのと同じように英語でコミュニケーションをとる光景をしばしば目にしてきた。それだと気がついた。別に場所は欧州である必要はない。たまたま僕が外の世界としては米国と欧州しか知らないだけで、言いたいのはたんに非英語文化圏、母国語の外の世界というだけの意味である。外国で母国語を当たり前のように話し続ける英語国民を見ていると、自分には絶対に知覚できないある種の感覚をこの人たちは知っていると思い、自分とは異なる世界観の中で生きていると痛感する。その逆もまた真であり、彼らは我々のことを何も知らない。外国に行くと、小さな、文化の差異が規定する見えない裂け目が一瞬目に見えたような気がする光景にぶつかる。その裂け目は決して飛び越えられるものではないということを理解しながらも、向こう側にいる感覚がどんなものかを知ってみたいと思う。

昨日の「東京夏の陣」、場所は東京。周りは日本人だらけ。単に店員さんが外国人だったというだけの話だが、初めて外国を体験した20数年前にはそうした飲食店はほとんどなかったな、とふと思う。