友達と他人との間で―rairakku6さんのエントリーに寄せて

私の書いた「くまさんよ、寝ぼけたこと言ってないで大人なら大人らしく行動しろ」というエントリーに対し、心優しいrairakkuさんが心配をしてくださり、2回に分けて、というよりも2度も筆を起こして、感想をつづっていただきました。ありがたいことです。同じありがたみは、やんわりと私の語調をたしなめてくれた中西さんのコメントにも、それからメールで一言書き送っていただいた大分の小野さんにも同じように抱かざるを得ません。

心優しいrairakkuさんは、その文章においてくまさんを十全に思いやる心遣いを見せていらっしゃいます。私は、相手は若いといったって三十代後半なんだから、そんなに気を使う必要はないですよと思ってしまいますが、それはさておき、rairakkuさんの心根の優しさにほだされない人はいないだろうと感じられます。

さて、そこでですが、せっかくの機会を頂戴したという思いが湧いてきましたので、rairakkuさんのエントリーから次の文章をお借りしながら、ブログや「シュンポシオン横浜」について私が考えていることをもう少し書かせていただこうと思います。

何をかと言うと、シュンポシオン横浜をめぐって、私にとってはおふたりとも大事な友人だと思っている、シュンポシオン横浜を主催して下さった『横浜逍遥亭』の中山さんと『海洋性気候/これやこの』や『知られざる佳曲・livedoor』のunknownmelodiesさん(くまさん)の間でのことです。
http://d.hatena.ne.jp/rairakku6/20081229

私が取り上げたいのはrairakkuさんがお書きになっている「大事な友人」、あるいはもっと端的に「友人」という言葉についてです。rairakkuさんは私のことを「友人」といって下さっていますが、お互いにそんなにあわてるのはよしましょうということを、ポジティブな意味合いを含めて言いたいのです。

ブログ上でコメントをして誉めあう、あるいは前向きなトラックバックをしたり、はてなスターをつけあうという行為には心踊るものがあります。それは人が持つ善意の発露に他ならないからです。日本の社会は人を正面きって肯定することにためらいをみせる悪癖がありますから、こうしたブログにおける行動様式には何物にも代えがたいよさがあると私は信じています。身内同士ですらなかなかできない「誉める/誉められる」関係を作る、そうした関係の型を自分自身に叩き込む練習として、ブログは私にとってすばらしい道具だということです。

ただ、☆をつけてくれる、あるいはコメントをくれるという関係が、rairakkuさんがおっしゃるように「友達」の関係なのか、それが友達同士であることを意味するのかといえば、私はそれは違うだろうと考えています。なぜそう思うかといえば、友達という言葉には「そんな簡単なものじゃないぜ」と言わざるを得ないような特別なニュアンスがあると私が考えているからです。好きも嫌いも含めて、5年、10年、20年という年月をかけ、喧嘩だって何度かし、苔がむすようにして形成される深い人間関係を、私は「友達」という言葉に象徴させたい。それが私の思いです。たとえば、一昨日に毎年恒例の忘年会をもった高校時代からの知り合いを中心としたテニスサークルの何人かは、どうしたって「友達」と呼ばないではすませられない関係です。私は一生のうちで本当に友達として付き合える人間は数限られているだろうと思っています。いや、もっと正確に言えば、そう言わざるを得ないような関係の濃さを持った知人を、特別な感慨を込めて「友達」と呼んでみたいのです。こんな風に書くと、rairakkuさんの善意に傷をつけてしまいかねませんが、☆をつけあうぐらいで友達扱いはしないよ、少なくとも俺は、と思ってしまうのです。

では、☆をつけあったり、コメントをしあったり、はるばると「シュンポシオン横浜」に集まってくれる人たちはお前にとって何なのかと問われれば、あえて友達とは呼ばないけれど、友達とは別種の重要な人間関係だと申しておきましょう。たとえば、信頼できる大人の関係、そんな風に言ってみたいと思います。私はブログでは「ブログの仲間」といった言葉を使っていますが、「仲間」であるという感覚は強く持っています。その中から、「この人とは一生の友達になれるかもしれない」と言えるような付き合いも生まれてくる可能性は驚くほど高い確率で存在しているような気がしますし、すでに私自身はそんな関係を何人もの方と結んだような気にもなっているのです。

でも、だからこそ。ブログの仲間は、お互いがきちんと他人同士であることを意識していこうじゃないかと言いたいのです。そして、そのことに実は大きな意味があると私は考えています。日本の社会は、中根千絵の縦社会論が語るように、内と外とを厳密に区別し、内には甘く、あるいは気を配り、外には対抗的、あるいは無頓着という行動様式をはぐくんできました。内向きで、外に向かって自己主張をすることが下手な社会です。私はそれじゃいけないだろうと思っています。家族とそれ以外、友達とそれ以外、クラスメートとそれ以外、会社とそれ以外、日本とそれ以外、といった内にばかりむけて制度・文化の洗練を図り、外はつねに内ではない何かでしかない社会のあり方はおかしいよと思うのです。これは言うまでもなく真理だとか科学の問題ではなく、端的に理念や思想の範疇の問題です。

つまり、友達とは必ずしもいえないけれど(もしかしたら、それはよい意味で友達ではないと言えるかもしれません)、互いが理解しあえる、共感できる関係の入り込む余地を社会に持ち込みたい。いや、そんなたいそうなことができるとはゆめゆめ考えてはいないのですが、たとえば「シュンポシオン横浜」は、そんな理念の実践として私には存在しています。言い方を変えれば、これも先日ブログで紹介し、ありがたいことに中西さん(id:gintacat)が繰り返し支持を語ってくれているメアリー・C・ブリントン著『失われた場を探して―ロストジェネレーションの社会学』、その中で取り上げられている、同書にとって重要な概念「ウィーク・タイズ」を意識的に重視していこうということにもなるでしょう。

仲間うちの関係に安住するのではなく、外に出て他人との関係を鍛え、楽しむ場としてのブログ。あるいは「シュンポシオン横浜」。知り合い以外とはちゃんと話ができませんというのではなく、きちんと外で自身を表現する場としてのブログ。これは、「シュンポシオン横浜」が会員制組織ではないということ、できればブログは実名での運営をお勧めしたいと私が考えていることの理由でもあります。日本から外に出ることも重要だけれど、日本の社会の中で外に出ることもちゃんとできるようになろうよ、と言いながら今年のブログ書きを納めたいと思います。

今年はブログを通じ多くの方にお世話になり、遊び、鍛えていただきました。どうか来年もよろしくお願いします。
皆さんのよき新年をお祈り申し上げます。

(大晦日の福岡・天神にて)