元田久治展

二十代の前半、一週間ベルリンで過ごした思い出がある。ある日の午後、現地に住まっていた当時の友人−−いまはもう音信が途絶えてしまったが−−に操車場の跡地に連れて行かれた。当時、第二次大戦から三十数年を経てベルリンにはそんな場所がまだ残っていた。東に入れば石造りの街に弾痕の後は生々しかった。操車場の跡地には、列車を半円形に配置された格納場所に振り分ける円形のスイッチのための装置があった。それらの施設が残骸となりながらも、往事を忍ばせる風に残っていた。僕をその場所に連れて案内した人が「廃墟が好きだ」と言ったのを、遠い木霊のように思い起こす。

元田久治展」を『mmpoloの日記』で紹介された瞬間に、この絵を本物で見たいと思った。同時にベルリンの廃墟を思い出した。会期をあと二日残すだけの金曜日、ちょうど仕事が東銀座であった。12時ちょうどに打合せが終わり、その足で、人も車もあふれかえる銀座の街を横切り、養清堂画廊へと足を向けた。

■東京が廃墟になる日(『mmpoloの日記』2008年2月21日)


元田さんのリアリスティックな東京の姿は、想像上の、来るべき東京大震災をたちまちに思い起こさせる。しかし、彼の廃墟は、災害に見舞われた後の、惨事の現場を表したものには必ずしも見えない。それが証拠にそこには人の姿が、その影すらも存在していないのだ。廃墟であるにもかかわらず、見る者に安心を与えてくれるのは、それが理由に違いないと僕は思った。

おそらく画家が表現したかったのは、永遠に対するある種の感覚ではないかと思う。空想の廃墟は未来の首都の姿を想像させると同時に、生き生きと人が動き回る今をあらためて鮮明に人の心に焼き付ける。と同時にまた、今を相対的に過去として位置づける作用も及ぼす。その瞬間に過去を見渡す視線を我々は手にしているのである。過去・現在・未来を一挙に行き来する感覚。それを動かぬ一つの画で表現しようとするとき、雨風と膨大な時の流れのなかで朽ち果てるに任せている廃墟に勝るものはないのではないか。作者の韜晦ともストレートとも言える戦略はしっかりと画面に表現されている。

そう思いながら、会場を見ていくと、二つの絵の前でどきっとする。一つは東京駅の全景を皇居の側から見た一枚。もう一つは空港、おそらく羽田に取材したと思われる一枚。東京駅の残骸はこれから改装工事が行われるはずの、駅が作れらた当時の丸い屋根なのだが、その駅前広場にいくつかのパワーショベルが描かれている! 誰かいるのだ。さらに、空港の一枚には、なんといま飛び立った飛行機が! 必ずしも人そのものが描かれてはいないのだが、飛行機はそこに操縦士がいることを示しているはずだ。

あれは作者の、「希望」に対する思い入れなのだろうか。それとも単なるレトリックの面白さを追求した結果なのだろうか。その辺りはよく分からないが、個人的には、あそこに誰かがいて欲しくなかったなと勝手な思いにとらわれた。それは他の、人っ子一人いない作品の清潔さをより強く意識させる契機として働いていることも事実ではあったが。

会場には廃墟のシリーズとは別の作品も少数ではあるが展示されていて、自動車をモチーフにした油彩の作品(廃墟のシリーズとは似ても似つかぬ作風。しかし、作者の同一の根っこを感じさせるモノトーン)にとても惹かれたことも記しておきたい。また、鑑賞の機会を持ちたい画家である。今回の展示作品はないが、以下のホームページで元田さんの作風を知ることができる。3月に上野の森美術館で開催される「VOCA展 2008」にも出品が予定されている。

■Motoda Hisaharu ART WORKS