写真と文章が拮抗する写真入りエントリー二題

今朝は実に素晴らしい二つの写真付きのエントリーを読んだ。
ひとつは『Emmaus'』の「覚えている」。河の小さな堰堤を水が流れ落ちていくさまを真正面から大胆な構図で切り取った一枚と、認識と存在をめぐる一文。

数日前のエントリーで、写真を説明するだけの旅行記エントリーは魅力が乏しいのではないかと書いた。これに対してくまさんが書いている本人が(繰り返しに)“飽き”るのではないかとのコメントをくださり、また三上さんからは、三上さんの実存的エリアに連れてこられた故の“遠慮”があったのではないかとの言葉を頂いた。お二人のおっしゃることにはいずれも真実が含まれている可能性はあるけれど、やはり違うのではないかと僕はいま思う。

旅行記のことに話を絞ったような書き方をしたのが誤解を生んだような気がするのだが、一般的に言って、やはり、単純に写真と言葉はそれぞれが寄りかかってはどちらにとってもよろしくない。だから、世の中に画文集や写真文集は数限りがあるのだと思う。両者に緊張感を持つEmmausさんのエントリーを見てそのことをはっきりと思った。こうはなかなかいかない。

まったく同じことを三上さんのエントリー、「二風谷の記憶1:沙流川橋梁 」に感じた。三上さんのエントリーは、鉄橋にまつわる思い出を鉄橋の写真を枕にお書きになっているが、この場合も写真が文章を誘い出す契機にはなっても作品として独立する強さを持っている。そして、互いが互いを支えてもいる。

ちなみに僕も同じ時に同じ場所で写真を撮った(三上さんのエントリーに鉄橋の上から面白いモチーフがないかなと下を覗いているさもしい姿が紹介されている)のだが、まるでさまにならずにボツにしたのだった。どうか三上さんの素晴らしい作品と比べてみてください。