外国語で会話をする二人

戦前に書かれたものを読むと、その本題が何であるかの如何に関わらず、昔の文化人の教養の高さに畏怖の念を覚えることになるのだが、文化人とは言わない、いったい大正時代に大学を出たインテリないしインテリもどきの学力の程度は、その当時の世界的水準に照らしても低からぬものがあったのではなかったかと恐れ入ってしまう。

芥川の『歯車』は中学生になり立ての頃に読んで、深甚たる感銘を受けた作品だが、芥川自身の一人称になる、この小説ともノンフィクションともつかない作品の中では、あらゆる事物、レインコートが、火事が、本の題名が、人のしぐさが、神経を病む芥川その人である主人公に負のサインを送ってよこす。入った銀座のカフェでは、どうも芥川を知っている新聞記者らしい二人連れが彼の後ろでうわさ話をしている。それがまた彼の心を掻き乱す。この場面はまったく記憶から欠落していたが、その二人は他に話が漏れるのを嫌ってなんとフランス語で会話をしているのだ。「Bien」とか言いながら。

『歯車』が書かれたのは昭和2年だが、当時の高等教育を受けた者たちは、そんな芸当ができたのかと、話の筋を離れて呆れてしまう。今の日本には当時の庶民には手に入らなかった世界の商品や情報が溢れている。そんなものを入手するためだけに七面倒くさい語学習得などあほくさくてやってられないというか、考える必要もないというのが平均的庶民の心中だろう。じゃ、英会話学校の隆盛はなに?という話になってしまうが、どうだろう。当時に比べれば世界レベルで「おぬしできるな」という人は増えていると思うが、このちょっとインテリレベルの教養になると、どんなもんだろうか。少なくとも国の外に対する感度という意味で上がっているのか、下がっているのか……。