面白い小説に出会いたい

mmpoloさんが芥川賞に関してお書きになっている感想には全面的に賛成である。


■芥川賞作品を読まない理由(『mmpoloの日記』2008年1月31日)


新しい感性に出会えるのではないかと一縷の希望をひそかに胸に抱いて文藝春秋を購入する。読む。どこが気に入らないのか、文句の言い方を考える。という成り行きが続くことになり、僕も芥川賞はたまにしか読まなくなってしまった。同じことは1年半前にも書いたっけ。


■文芸誌(2006年9月8日)


純文学、大衆文学という死後一歩手前のジャンルの違い以上に、直木賞は実績のある人へのご褒美、芥川賞先物買いというマーケティング的なスタンスの違いの方がより目立つようになってしまっているのが両賞の昨今だ。文学が駄目になっているというテーマで、江藤淳開高健が対談でしゃべっているのを読んだのは、まだ僕が大学生の頃。その時分、つまり1980年前後の対談で、いまクリエイティブの才能がある人が文学を目指すという風にならないと文壇の大物二人が嘆いていた。音楽には素晴らしい才能がいる、日本の工業製品は世界の隅々で評価されている、ところが文学は…という文脈の中で。

その後に何が起こったのだろう。村上春樹が世界的な作家になった。吉本ばななもそうかもしれない。日本文学の発見が国外で起こっている。高橋源一郎がメジャーになった。それから何? 江藤や開高のおっちゃんたちが嘆いていた以降に出た作家たちがいまは芥川賞選考委員。しかし、僕にはそれらの先生方の芥川賞選評すらが本気で楽しめない。選考委員の中では、いまや昔の人の代表格になってしまった石原新太郎が歯ぎしりをするように、文字にする苦言、批判にもっとも共感を覚えてしまう。

一方で、直木賞には、浅田次郎高村薫桐野夏生などお話づくりの名人が何人も出て、我々読者は「文学とはそういうものだ」という認識をこの二十年間自らの中で発酵させてきたような気がする。これらの作家の人たちは、けっこうグロテスクな題材を手に汗握る面白さで書いて僕も楽しんできた。しかし、同じグロテスクを扱うときに、例えば大江健三郎のように、読み終わった後にまで、人の感性と世界観を逆なでされたと憤慨したくなるような部分がない。

やはり、そんな意味で面白い小説が、読みたい。評価が定まった大家の作品以外にも。もし、お勧めの作家がいたら、コメント欄でもメールを使ってでも結構ですので、ぜひご教示ください。