海外の新聞は写真もいい

アメリカの新聞にはうまくイラスト、グラフィックデザインが使われているという話を書いた。そのことはずっと感心していたことだったのだが、写真の質の高さについて気が付いたのは、つい先日のことだ。

イラストの話を書くために久しぶりに紙版のニューヨーク・タイムズをめくって、それらしい記事を探しているときのことだった。ぱらぱらとめくっているうちに、イラストのことはさておき、日本の新聞と比べて写真が断然よいのに気が付いたのだ。この数ヶ月、写真ブログを作り続けている効用だろう。今まで漫然と見ていた写真があちらから何かを訴えかけてくるようだった。目から鱗が落ちるとはこのことだ。フィナンシャル・タイムズも見てみた。唸った。

これは、9月12日のフィナンシャル・タイムズ企業欄に掲載されていた写真。フォルクスワーゲンピックアップトラックを生産するなどトヨタ追撃を行う意志を固めたことを伝える産業記事だ。普通の、単なる、産業記事を飾った写真がこれだ。写っているのは同社のボスであるヴィンターコルンだが、この一枚の写真で紙面は抜群の躍動感を与えられている。




次の例は、ニューヨーク・タイムズ。ニューヨークの地下鉄が災害などの際に臨機応変に路線を切り替えて運行するよう計画していることを伝える記事。路線図は先日もこのブログで見て頂いたが、そこに掲載されている写真は、大雨のグランドセントラル駅に雨水が溜まってしまい、その中をこわごわと歩く女性の後ろ姿を流し撮りで捉えたもの。




最後は、政治面に載っていた写真で、内容は忘れたが、議員の記者会見の写真だ。議員と最前列の女性記者の表情の対比が画面に抜群の運動感を与えている。。




どれも写真に躍動感がある。生々しさ、生気がある。これらはたまたま手元にあったある日の紙面からノンシャランにピックアップした写真であって、これらの新聞の写真としてものすごく優れている例という訳ではない。ニューヨーク・タイムズフィナンシャル・タイムズにとっては平均的な、ありがちな写真だ。もし、手元にフィナンシャル・タイムズがあれば、あるいはWebでニューヨーク・タイムズのページに飛んでみて、その日のトップページの写真をご覧になってみるといい。日本の新聞ではお目にかかれないいい写真に出会えるはずだ。

これらの写真のよさを要約すると、少なくとも二つのことが言える。まず、レンズが本来持つデフォルメの効果をしっかりと使っており、そこに躊躇がないこと。二つめに、どれもカメラマンの個性が生きていること。人によってはやりすぎだと思うかもしれない。日本の新聞では広角レンズでデフォルメした被写体の画像は滅多にお目にかかれないのに対して、ニューヨーク・タイムズでは日常茶飯事で掲載される。よい写真には空間の間をうまく使ったものが多いが、そうした写真の伝統的な技術を生かそうという意図の見える写真がものすごく多い。つまり、そこではカメラマンが自らの技術と感性をかけて戦っている。

日本の新聞を開いてみてくださいな。こういう個性的な画像は基本的に存在していない。今日の日経に広角レンズで有名経営者を狙った一枚が掲載されているだろうか? 今日の政治面に官房長官と記者のやりとりをあたかもその空気とともに伝えるような一枚があるだろうか?

では、なぜに日本の新聞ではそうした写真がないのか? これは部外者の一般読者には謎だ。単にカメラマンの質が低いのか。あるいは。しかし、ある種の誇張などカメラを与えられれば、我々素人だってある意味ですぐできる遊びの類なのだ。それをプロの報道カメラマンがしないのは、彼ら自身か、彼らの上司か、編集の責任者か、それらの総体、歴史を背負った日本の大新聞としての意思か、どこかの位相で「まった」がかかっているからだと想像できる。誰かが、あるいは大いなる無意識が言っているのだ。「そんな奇をてらった写真は報道写真ではない」「それは素人の遊びだ」「二流の雑誌じゃあるまいし」 もちろん、その背後に産業、企業としてのシステムの違いに起因する理由があるのかもしれないが、そこがどうなっているのか、知識のない我々にはますます見えない。少なくとも日本の新聞人が写真をアートとして、それ自体を表現の一手段として重要視していないことだけは火を見るよりも明らかだ。

というわけで、誰が頼んだわけでもないのに我々は感性を鈍くさせられるようなつまらない写真を毎日見せられている。もちろんこれは写真だけの話ではない。日本という国の持つ無意識の自己規制の力は恐ろしい。