エンドユーザーにとって電子書籍は何と競争しているのか

一昨日の朝、『The Power of Words』で『もしドラ』をiPhoneで読んだら紙の本よりも読みやすかったという話を読んで、好奇心が疼き、すぐに当の電子書籍を購入。

■もしも「もしドラ」をiPhoneで読んだら(『The Power of Words』(2010年5月19日)


その夜に開催された「わいわい」でドラッカーの名前を口に出したら、最近は親鸞の全集(?)を読んでいるとかいう高踏派のせるげいさん(id:sergejO)に鼻で笑われたが、“いわゆる”ビジネス書はほとんど読まない僕もドラッカーは別でこの人はすごいと尊敬しているのである。これはほんとだよ、せるげい。

ドラッカーの話、じゃなくて電子書籍の話だが、「紙版よりも電子版の方が読みやすかった」という先のお話に「あ、なるほど、」と感じながら、同時に別のことに思いが至った。

パソコンや携帯の画面で長い文章が読みにくいのが何故なのか。輝度の問題か、解像度の問題か、はたまた装丁や組の問題か。それとも、ぱらぱらめくりや線を引いたり書き込みをしたりといった従来のテキストの読み方を禁じられていることがいやなのか。青空文庫iPhone用ビューワーで読んだときには、iPhoneを使い始めて最初の一月ぐらいは新しもの好きの性格が前面に出てけっこう読んだが、いつの間にかまったく使わなくなってしまった。

もしドラ』電子版を読みながら、ふと気がついたのは、これまでぶつぶつ言ってきたそれらの短所にくわえて、端的に使いにくいと思うのは、電池の持ち時間の制約に関してである。『もしドラ』はどんどん飛ばして読めるのでこの種のストレスがも比較的小さい。これが芥川とか、漱石だと、なぜかじーっと画面に見入ってしまい、そのうちに電話やメールが使えなくなる事態がやってくる。iPhone上の読書は、だから何と何とのあいだの競争かと言えば、末端の読者にとっては紙と電子のそれというよりも、本と電話だったり、メールだったり、GPSアプリだったりするという要素が強いのではないか。「iPhoneでは読みにくい」というのは自分自身に向かっての合理的な理由付けの側面が強くて、無意識に近いところで「「夏目漱石」よりも「メール」」といった優先順位付けがなされていたということではないか。

もしドラ』のような読み物の文体がiPhoneの小さな画面になじみやすいという事実と同時に、このことに思いがいたり、なんでそんな簡単なことを今まで気がつかなかったのだろうと自分の馬鹿さ加減にあらためて脱帽。バッテリーの持ちがよければ、iPad電子書籍は、物珍しさも手伝ってガジェット好きの層ではきちんと流行るかもしれないと思ったのである。こうやって文字にすると、またなんとつまらないことを書いているんだかという気がしてしまうのだが。