ブログの文章書き

ブログで読書感想文を書く面白さにはいくつもの理由があるが、現象面としてブログ特有だと常々思うのは、書きながら考える、考えながら書くというプロセスの中で文章を作り、それをそのモードのままに公開するということが心理的にも容易にできてしまう点である。

文章は推敲しつつ書くものだという観念は、例えば僕が私淑した開高健からも植え付けられたし、大江健三郎も典型的にそうした主張を実践してきた人だ。彼は最初の稿を書いてから、その何倍もの時間をかけて何度も書き直す。そういうことをすることによって鍛えられるものがあると言う。

ブログで僕が実験しているのは、それとはまるで正反対のことで、思ったことを、そのときに思いついた文体でとりあえず発表してみるということ。ブログのように個人に無限と言ってよい発表の場所を与えられた時代の、新しい意見発表の仕方だ。文章はそういう風に書くものではないという理念にむしろ凝り固まっていた僕にとっては、これも自分の殻を破る練習となる。自分が今やっていることの悪口を書きなさいと言われれば、いくらでもできそうな気がするが、そうしたマイナスの批判精神を封印して、まずは書いてみる。すると、ときにすんなりと思いが言葉になっていると感じられ、いいじゃないかと思う。また、ときになんでこんな阿呆なことを、と掲載して30分後には舌打ちをしたくなることもある。

大江健三郎 作家自身を語る』を読んで驚いたことの一つが、彼が村上春樹をべた褒めする文章に出会ったこと。二つめが、わずか数行なのだけれど、ブログについて言及する記述があったことだ。その中で大江さんは、やはり自分の書いた文章を推敲することを勧める。それは、たまたま僕自身がぼんやりとながら考えていたことでもあり、何の反発もなく受け止めると同時に、「書きながら書き直すということでもいいじゃないか」という思いが自然とわき上がってきた。そのように、プロセスそれ自体を一種の作品として提示することも、ブログ的な表現の可能性だと最近は自分自身に言い聞かせるようにしている。

例えば、大江健三郎について書いたいくつものメモ書きのような文章も、あるいは、一昨日にアップした初島体験を基にした感想も、既存の媒体で限られたスペースを与えられた限りでは決して発表することはない生煮えの文章だ。しかし、ブログでは、それらの断片を自分自身で読み返しながら、またその先の考察を重ねていくというスタイルをとることができる。肝心なのは、これらが断片に近いものである意識を持ち続けること、ある種の息の長い集中力を持ち続けることではないかと考えている。