大江健三郎著『水死』

大江健三郎の最新長編小説『水死』が刊行された。今度の長編は、大江さん自身が「レイト・ワーク」と呼ぶ連作風小説群の最後の作品と位置づけられており、著者最後の長編と銘打たれている。もっともノーベル賞受賞後に『燃えあがる緑の木』を最後の小説にすると宣言しながらも書き続けてきた大江さんのことだから、レイト・ワークの後にラスト・ワークスがあっても不思議ではない。ぜひ、そうしてほしいし、今度の作品の充実を見るかぎり必ず次はあるという気がするが、まあそれはともかく。

大江さんの「レイト・ワーク」は、すべて自身と過去の作品に対する言及を大事なモチーフとしているので、この作品も最初に単独で読んでも著者のたくらみやメッセージ、小説の面白さはなかなか伝わらない。前作の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』が『万延元年のフットボール』や『取り替え子(チェンジリング)』などの作品を読んでいないと話の重層性が見えないのと同様、この作品でも『みずから我が涙をぬぐいたまう日』、その他の初期作や『新しき人よ、めざめよ』などの中期作品に目を通していなければ、そこで語られているエピソードの面白さ、この作品を読むことの喜びは味わえないつくりになっている。この感覚がどこから来るのか、僕には必ずしもうまく語れないのだが、小説を読むことの楽しみのなかに、物語それ自体を楽しむこととは別に、著者の人生観と共感し、著者と人生の時を共有することがあることに直接の関係があるのはまちがいない。

大江さんの過去作品への言及は、作曲家、たとえばモーツァルトブルックナーが同じモチーフを異なる作品に呼び出して利用するのにとてもよく似ていて、そうした曲に接するとき、我々鑑賞者は作者の心の中に時を超えて存在していた確固とした何かに触れたように感じることがあるのではないかと思う。あるいは対位法的に込み入った作品を聴くと、作者がそれによって作曲家という単一の人格がパラレルワールドを生きようとしているように僕には理解できるのだが、大江作品の読書体験には、そうした音楽作品の鑑賞にとても似た時間感覚がある。その意味で大江作品は非常に音楽的だ。作品中に挿入されるクラシック音楽の、バックグランド・ミュージックとしての効果にはいつも首をかしげざるをえないけれど。

『水死』の主人公である長江古儀人(ちょうこう こぎと)は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』を書いた小説家として登場し、大江健三郎と相似形の人間関係を有し、自らの(あるいは大江の)「レイト・ワーク」の内容についてこれこれのことを書いたと言及する。と同時に、長江の生きている現実は「レイト・ワーク」と地続きであり、そこに登場する架空の人物が呼吸する世界でもある。こうした現実と非現実がないまぜになる虚構空間の洗練にはますます磨きがかかり、その中で長江の父親が彼の幼年時代に突然の死を遂げたことの真実を主人公が追求するという、これも大江さんの個人史に重なりあう出来事をモチーフとして小説のプロットと著者の主張とが展開される。長年の読者にとってはこたえられない内容であり、彼の批判者にとってはうんざりな作品であり、非読者にとっては「?」な作品だと言ってよいだろう。

僕はけっこう長い大江さんの読者として、すんげえなあと賛嘆の声を上げないわけにはいかないが、同時におっちゃんの自己擁護も見事なものだなと思った。今回の主要登場人物である穴井という演劇人は、 長江作品の崇拝者であり、長江作品を基に舞台を製作しようとしているが、次第に長江の政治性には一定の距離を置いている人物であることが明らかにされる。これに対し、穴井の弟子だが、より長江の政治性に反応する女性がヒロインとして作品の前面に立ち、穴井は長江=大江によって疎んじられ、いつの間にか物語の脇に追いやられてしまう。僕は、まさに穴井のようなスタンスで大江作品に接してきた読者である。お前のような読者はきらいだと言われたようで、読みながら苦笑を禁じえなかった。お互いさまではあるが、いやはや、「まいった、まいった」である。

水死 (100周年書き下ろし)

水死 (100周年書き下ろし)