携帯小説の隆盛とわたくし

数日前観たNHKのニュース番組で携帯小説がテーマになっていた。携帯小説だか、ケータイ小説だかいうものがすごい勢いで読まれていて、それらのうちよいものは講談社など大手の出版社が単行本にして百万を超えるヒットをしているというではないか。この番組を観て、自分自身の関心が世間の趨勢から離れているのを思い知らされた気がした。

番組では、携帯小説の特徴をわかりやすく解説していた。書き手も読み手も若い人たち。登場人物も小説の内容も若い人たちのためのもの。まぁ、携帯で小説を読み書きすることを考えれば、そりゃそうだろう。携帯の画面になじむ短い文章が例外なく使われ、日常的な会話をそのまま文字に置き換えたような文体が使われる。また、そもそも会話の占める割合が圧倒的に大きいのも特徴だという。こうした新しい文学の勃興を文芸評論家、学識経験者、編集者らを登場させながら上手に説明しているのを見聞きしながら、ふーんと思ってしまった。

テレビで紹介されたいくつかの例を見た以外には当の実物を読んだことがない時点であれこれとブログに書くこともないが、自分の興味に照らして感慨を覚えたのは、こうした文学を消費する人たちは、文章のレトリック、あるいは文体といってもよいが、書かれる文字のありようそれ自体を個人の創作の重要な部分であり、味わう価値があるものと考えるなんてことはしないということだ。もっともブログをやり始めてこの方、携帯小説の読者のみならず、ブログを読んでいる層のマジョリティがそうだという事実にはどんなに鈍感でも気がつかないではいられない。だから驚くことはなかったが、それでもだめ押しの感慨にはつながった。自分の感性は決して日本のマジョリティにはつながっていかないのだ。これは、携帯小説なり、文学なりを離れて、もう少し幅の広い日本人の嗜好ということに敷衍し、それらを幾分なりとも汲み取りながら仕事や生活をしていかなければならないはずの自分というものを考えた場合、何を意味するのか。というようなことを最近少し考えたりする。