水村美苗著『本格小説』、あるいは昨日の『日本語が亡びるとき』批判を批判的に眺める

昨日のエントリーでは、『日本語が亡びるとき』に関し、著者の語り口のある部分、または思想に対して批判を書いた。水村さんがもっとも意図したであろう、近代日本文学の(再)評価と日本語の豊かな将来とを理論的に連結したいという試みについて僕が評価しないのは昨日書いたとおり。ただ、欠点と思われる部分をあげつらって批判をするのはとても簡単なことであるし、同時にあまり格好いい態度とは言いかねる。自分のエントリーを読んで、あらためてそう思う。そして、僕はとるかとらないかと訊かれたらとらないと書いたが、実はこの本はそれほど単純な本ではなくて、瑕疵を持ってしてあまりある美質があることにも、きちんと言及をしなければ不当だろうと思う。

昨日指摘したこれか、あれかという尺度で過去の日本語と現在・未来の日本語を比較している部分について僕は水村さんの論に同意はしない(僕はどうしたって、あの6章の語りは戦術の失敗だと思う。「それを言っちゃあおしめえよ」という内容になってしまっている)が、歴史的産物としての「国語」の持つ内実の豊かさ、その価値を意識しましょうという水村さんの主張に異議を唱えるつもりはない。僕は次の水村さんには興味が湧いたので、次の著作も読むつもりだ。

また、後で読み直してみて、昨日の批判の中で水村さんの論に明らかに勝てていないところは、近代日本文学を金科玉条のごとくに表現するのは、渋谷の交差点で「ブルックナー、サイコー!」と叫ぶようなものだと書いたところである。これはたとえが適切ではなかったかもしれない。古典派音楽の理論、形式が無骨に前面に出る作風でありながら、シューマン以降のロマン派の音楽そのものでもあり、しかも、最後の作品である第9交響曲における調声の崩れが20世紀音楽を予感させるブルックナーは、僕にとっては水村さんが語る、美質がすべてつまった近代日本文学に比較できる存在ではある。だが、日本国民にとって日本文学の問題を矮小化していると言われれば、そのとおりだと思うからだ。

だが、昨日書いたことで、やはり間違っていなかったとあらためて感じる部分もある。小説家の書く評論はつまらないという僕自身の思い込みについてである。一月前に読んだ『本格小説』と『日本語が亡びるとき』。かたや小説、かたや評論だが、『本格小説』の読後感は『日本語が亡びるとき』のそれよりも数段勝っている。かたや、小説、かたや評論。それらを比べるのは無理があるのではないかと思われる向きがあるかもしれない。だが、これはお読み頂くしかないが、そのどちらも「私」を核にした物語という意味で、根は一つである。作者自身にとって書かねばならない物語になっている点で、双方とも確実に作者の写し身であると了解させる点で、それらの作品は他人が見ればそっくりにしか見えない兄弟だ。

本格小説』は文庫で上下二巻の長い小説だが、著者自身を彷彿とさせる人物が登場し、親の駐在のために不本意なニューヨーク生活を余儀なくされた子供時代の思い出を語る長い前書きが添えられている。その思い出の中で語り手=著者が作中の主人公と出会ったという設定になっているところが、この小説の洒落ているところである。この前書きに言い尽くしがたい魅力がある。どこまでが水村さんの実体験か、どこからが作り話かはもちろん初めての読者には分からないのだが、そこに表現された、意図せざる海外生活の孤独。その中に悄然として立ち尽くす少女(=作者)の印象は、境界を超えて他の土地に移る寂しさ、不安を体験した者にとって共感を呼ばずにはおれない真実の表現になっている。僕は思わずその文章のいくつかに引き寄せられた。

この文章を読んだ後に『日本語が亡びるとき』を読むと、『本格小説』の前書きは、『日本語が亡びるとき』の前書きとなり、なぜ著者がこうした主張をしたいのかがよりくっきりと理解できる。その段で言えば、やはり、評論としての『日本語が亡びるとき』は水村さんの思いを十全に伝えているとは僕には考えられないし、昨日のエントリーで指摘したとおり、本来語るべきではなかったことにまで筆が進んでいると感じられてしまう。『本格小説』に流れるたおやめぶりの魅力は『日本語が亡びるとき』の第一章に引き継がれているが、それ以降、ますらお的な意欲が著者の魅力を殺してしまったと僕には思えてしまうのである。

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈下〉 (新潮文庫)

本格小説〈下〉 (新潮文庫)