スティーヴン・キング著『11/22/63』

久しぶりに分厚いエンターテイメントを読んだ。スティーヴン・キングの『11/22/63』。おしゃれなタイムマシンものの長編である。奥さんに逃げられ、空虚な思いを抱える主人公の高校教師が、時間の穴をくぐってケネディを助けに1960年代のアメリカに出かけるという、それだけ聞くと、いったいなんだよと言いたくなるようなお話である。

しかし、である。リアリティのリの字もない荒唐無稽なセッティングを用意して、読み始めたら巻を置くに能わずという表現そのものの状態に引き込まれてしまい、ほぼ一週間のあいだ、子供の頃から誰もが知っている冒険活劇本を読む楽しみに浸ることができたのだから、たいしたもんである。ちょっと幸せだった。二段組みで上下巻合わせて約千ページの愉楽。北杜夫の小説だったと思うが、読んだ本の数だったか、ページ数だったかを数えて喜んでいる同級生の描写があったように覚えている(どっちだったろう)。『11/22/63』は冊数競争の相手としては脱力ものだが、活字数競争の対象としては舌なめずりするしかない。ページが減っていくのがもったいない思いにとらわれる読書は楽しい。

スティーヴン・キングだから、別に強力な思想があるわけではないが、呆れるほど上手なプロットと語り口はある。ねちっこい西洋人のアクの塊みたいなキング作品は本来ちと苦手なのだが、この作品については、えげつない人殺しはキングにしてはそこそこといった程度しかないし、ケネディを助けましょうといった前向きな(?)目的で読者をひっぱるし、何よりも最後はハッピーエンドだし、時間つぶしの本読みをしたい人にはそれなりにおすすめである。何よりも美質として言いたくなるのは、作品全体に不思議な抒情性が流れている点だ。そこが、たとえばダン・ブラウンの、展開のための展開しかないような御都合主義エンターテイメントとは一線を画す大きな魅力になっている。

僕はタイムマシンものが好きで、それがこの本に魅せられた理由の大きな部分を占めているかもしれないと思う。この本のタイムマシンはなかなか面白い。違う時代を行ったり来たりできるのは珍しくもないが、行き先が常に1958年9月9日で、何度行っても、たどりつくのはその日のその時間。行くたびに状況はリセットされていて、同じゲームをやり直すように新たな体験が始まるという設定になっている。人はそこで過ごした時間の分ちゃんと歳を取って戻ってくるが、たとえどれだけ長くあちらに滞在したとしても、戻った先の時間では、たったの2分しか経っていない。面白い設定をつくったものだと感心した。とくに読了後に、ますます。

この恣意的なゲームのルールの設定のおかげで、主人公の冒険には常に「時」が大きな意味を投げかけることになるのだが、その理由は読んでのお楽しみだろう。なんでこんな荒唐無稽が面白いのか、ということに立ち返ると、もちろん著者の技工もさることながら、荒唐無稽を面白たがる読者としての私の現在があるからだろう。それはどんな現在なのか、という問いかけは、キングや村上春樹のようなストーリーテラーの手になれば、新しい物語の始まりにはなるだろうが、さてそれは冒険活劇か、私小説か、はたまたメロドラマか、不条理劇か。

つまんない問いかけをするものじゃないですね。


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