もひとつ『モーツァルトの脳』

モーツァルトの脳』は音楽を司る脳の機能に関する概論にとどまり、天才論にまで歩を進める本ではない。でも、モーツァルトという固有名詞に耳がそばだつ者が期待するのは、やはり大作曲家の創造の謎に対する接近。何が彼を余人をもって代えがたい存在にしたのか。そこに彼の脳が持つどのような機能的特性が関与しているのかを本を読者は読みたいと思う。しかし、著者の学者としての謙虚さは天才の「謎」の前で口をつぐんでしまう。一読後の印象は物足りないのだが、その姿勢は気持ちよいと言えなくはない。

それでもやっぱり、天才で遊びたい。なんといってもモーツァルトだもの。ということで、いまだにこんなエントリーなのだが、この実に読みにくい翻訳本は周縁を回るように音楽の天才を実現するための必要条件を思い起こさせる。天才なんて曖昧な言葉を凡才が弄ぶのも馬鹿みたいだが、人が思いもよらないような新しい価値をやすやすと作り出し続ける人をそう呼ぶとすると、どうしても本書が最初に取り上げ、記述の量も全体の中でもっとも多いと考えられる「ミゼレーレの奇跡」とモーツァルトの超人的な記憶力というトピックに思いがいってしまう。

モーツァルトの天才、作曲家の天才は、一聴、誰もが「あぁ、これはモーツァルト」と納得してしまう明確な個性の発露にある。なんでそうなの?と僕はいつも思う。モーツァルトである必要はない。ブラームスだって、ショスタコーヴィチだって、矢野顕子だって、ほかの誰でもない納得の個性がそこに刻印される。それが天才の証明だと思うのだが、その他者との差異を作り出す能力はどこから生まれるのか。

僕は「ミゼレーレの奇跡」、『モーツァルトの脳』の著者が注意を喚起する「記憶力」が気になって仕方がない。よく知られているようにモーツァルトは当代の最新の作曲理論を吸収し、先達の技法を研究し、要はありとあらゆるスタイルを勉強したガリ勉だった。しかし、彼は勉強の成果をガリ勉風にノートに書き写していたのではなく、パソコンに溜め込んだり、検索可能にしていたのでもなく、その超絶的な記憶力でもって、彼の脳髄に刻み込んでいたという事実は、もっと真面目に考えてみてもいいのではないか。それによって彼の脳は常に情報の能動的な検証を可能とし、そのどれとも異なる新しい彼なりのスタイルを構築する条件として作動した。そういうふうに考えると、天才と記憶力は密接不可分ということになるだろう。

天才とばかりは言わない。我々一般人の創造への試みにおいてすらも、脳髄でたゆたう記憶が新しい創作への必要条件だとみなすならば、まさにその記憶力の減退に悩む中年の日常に救いはあるのか? 記憶力は如実に落ちてきたけど、パソコンにいろいろと溜めてるもんね。検索だってできるもんね。と、IT時代の中年はたまゆらの安心をメディアによる人間拡張のイデオロギーに求めたりするのだが、実はそんなの嘘なのではないか? 私が私のために処理が可能なピチピチと跳ね回る情報は、ニューロンの発火が減りつつある、もう昔のようには働いてくれない私の脳の中にしか結局はないんじゃないか?

これは哀しみの表現だろうか? 少なくとも、これぐらいの与太話を思いつくだけの働きをまだしてくれているワタクシの脳に対するエールだろうか?

モーツァルトの脳

モーツァルトの脳