リンツ

ウィーンを後にリンツに出かけました。およそ200キロ弱。ウィーン西駅から特急列車に乗って1時間半ほどの旅です。





リンツは、ウィーン、グラーツに次いでオーストリア第3の規模を誇る都市ですが、ウィキペディアで調べてみると、人口はたったの19万人で、ウィーンから来ると地方の小都市の雰囲気に気持ちがほぐれます。ことに到着した日はそれまでの寒さが緩み、春の日差しがぽかぽかと降り注ぎ、春風がやさしく吹いていましたので、街中を行き交う人々もゆったりとし、かつ田舎のおおらかさが満ちているように感じられました。こういう観想は、おそらく旅人の勘違いである可能性が大きいので、帰国した後の、今の私自身もおおらかなリンツを何の疑いもなく信じているわけではないのですが、リンツの駅に降り立ち、市電に乗って市の中心部に向かった時から聖フローリアン修道院行きのバスに乗るまで、おおらかなリンツを感じ続けていた自分がいたことは事実として覚えています。それはそんな一日でした。とても素敵な、別に何も特別なことは起こらなかったのに、記憶に残る一日だったと言いたいと思います。





リンツヒトラーの故郷と言ってもよい街です。正確に言えば、ブラウナウ・アム・イン(イン川沿いのブラウナウ)という街が彼の生まれ故郷ですが、リンツはブラウナウのあるオーバーエスターライヒ州の州都であり、ヒトラーが幼いころを過ごした土地でした。彼はこの街を彼の終の棲家として、第三帝国の巨大な首都として改造することを夢に見ていたのだそうです。ナチスのおぞましい記憶はリンツの東方十数キロに位置するマウトハウゼンの強制収容所跡地に残されています。

クラウディオ・マグリスは、『ドナウ ある川の伝記』の中でリンツを取り上げ、印象的な短文をいくつも残していますが、この街に縁のあり、かつヒトラーと対極にある人物として作家のアーダルベルト・シュティフターを取り上げています。『晩夏』(ちくま文庫)、『水晶』(岩波文庫)など「保守的なオーストリアの伝統に根ざし」、「絶えず節度の秘密を知ろうとした」(マグリス)素朴な作品を残した作家にして風景画家だった彼は、ドナウ川を望む建物に20年以上住まいました。シュティフター読んだ方どれぐらいいるでしょうか。大向こうを唸らせることは決してない、静かな小説の作家は、その住まいで喉を掻き切って命をたちました。ドイツ文学の研究者でもある作家の古井由吉シュティフターを評価していますが、古井さんの静けさとシュティフターとが響き合うのは、それこそ静かな美しさというべきです。

シュティフターの家は記念館となり、今もドナウ沿いの道路脇にあります。訪れてみると、彼の部屋が展示されており、希望者には見せると入口にありましたので、2階の事務所に登って「日本から来た観光客ですが、シュティフターの部屋を見せて頂けますか?」と尋ねたのですが、残念なことに今日は閉館日ですと断られてしまいました。事務所は開いており、部屋はすぐそこにあるはずなのですから見せてくれてもいいのにと思うのですが、この辺りの原則を曲げない態度はドイツ・オーストリアっぽいところです。

クラウディオ・マグリスは書きます。

シュティフターが死んだとき、一人の男が葬儀の合唱の指揮をとった。ある意味で同じく「物語のない」人生の人だった。アントン・ブルックナーであって、リンツ大聖堂つきのオルガン奏者をつとめた近代の偉大な作曲家である。きちんと仕事をし、宗教的な義務を全うすることに比べると、芸術家であることをそれほど重視したわけではなかった。
(クラウディオ・マグリス著『ドナウ ある川の伝記』(p160))

音楽には縁がなかったシュティフターと、文学に関する逸話はまるで聞かないブルックナーの人生がこうした形で交差した事実は、この本を読むまで知りませんでしたので驚きました。リンツブルックナーが32歳の時に大聖堂と市教区教会のオルガニストに任命され、ウィーンに出るまでの12年間を過ごした街です。
そんなわけで、リンツまで来てしまいました。

写真は、シュティフターハウスです。道路の左側にドナウ川が滔々と流れているのですが、それを入れないなんてまったく記録写真としてなってないですね。道路に面した、つまりドナウに面した窓のどこかがシュティフターの窓だったようです。





水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)

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晩夏 上 (ちくま文庫)

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