ブルックナーの風景(10): 聖フローリアン修道院に泊まる


ザンクト・フローリアンはリンツの街から南南西に18キロ、乗り合いバスで30分ほど下った森と畑が広がるエリアに存在する町です。このザンクト・フローリアン(聖フローリアン)というドイツ語の地名ですが、日本語では聖フロリアヌスという3世紀に実在した人物に由来しています。フロリアヌスは現在のオーストリアのザンクト・ペーレン市にあたる場所で生まれ、ローマ帝国の役人になって出世しました。今のリンツやザンクト・フローリアンがある地域の行政官としてトップを任されていたそうですが、時はローマ皇帝ディオクレティアヌス帝による「大迫害」の時代、キリスト教徒の取締り・迫害をローマから迫られ、それを拒否したためにフロリアヌスは首に岩をくくられてドナウの支流であるエンス川に沈められてしまいます。現在のザンクト・フローリアンから5キロの場所だったそうです。この事実によって、彼はキリスト教の聖人として崇められる存在となりました。

後に、聖フロリアヌスがある女性の夢枕に立って、自分はこれこれの地点に沈められているから、きちんと葬るようにと依頼をします。この女性が彼の亡骸を見つけて葬った場所が現在の修道院のある場所であり、そうした伝説を踏まえ、聖フローリアンは発展をしていきました。9世紀には修道院の存在が記録されており、11世紀にはロマネスク様式の教会が作られたそうです。それ以降、修道院を中心としたコミュニティが形成されてきました。現在の修道院の建物は17世紀にバロック様式に改築されたものです。

この修道院は建物自体がたいへんに素晴らしいもので、世界遺産になったメルク修道院などと並び、オーストリアを代表するキリスト教の建造物として知られているようです。ですので、聖フロリアヌスの故事と風光明媚な修道院だけでも観光価値は抜群な場所なのですが、日本人が訪れる場合は、ほとんど私のようにブルックナーに惹かれてのことだと思います。

「作曲家で、ブルックナーにとっての聖フローリアンのように、ひとつの特定の組織に身をおいて生きた例はあまりない。」(Dermot Gault著『New Bruckner』)と言われるほど、ブルックナーと聖フローリアンは切っても切れない関係で結ばれています。梅に鶯、刺身にわさび、丹下段平泪橋みたいな感じです。

近隣のアンスフェルデンという町で小学校の校長先生をしていたお父さんがなくなったブルックナーは、1837年、13歳の年に聖フローリアン修道院に預けられ、その学校で勉学をおさめ少年聖歌隊員としての日々を送り、またオルガン助手として17歳の1841年までここで過ごしました。こののち、リンツや郊外の町に教師として赴任しますが、1845年に再び聖フローリアンに戻り、10年間修道院のオルガにストを務めました。彼はウィーンで成功をおさめた後も、静養のために聖フローリアン修道院を訪れていたようです。遺言に従い、彼は修道院のオルガンの直下に埋葬されています。ブルックナーの音楽家としての始まりから終わりまでを見ていたのが聖フローリアン修道院ということになります。




よく来たなあと思いました。ウィーンやザルツブルクはそれなりに観光で来る機会はあるとは思うのですが、少しルートを横にそれるリンツや聖フローリアン修道院のような場所は、たっぷりの時間か、あるいはそれなりの思い切りがないと日本から観光ではなかなか行けない場所ではないでしょうか。私の場合は、たまたまこの時期に旅行のための時間がつくれ、どこに行こうと考えた先の聖フローリアン修道院でした。そのためだけにわざわざ行くかと訪問の意義について反芻もしてみたのですが、結果的には敢行してよかったと思います。ウィーンはそれなりに見知った場所だったので、正直なところ感激という言葉に値するような思いはありませんでしたが、ザンクト・フローリアンと聖フローリアン修道院については、十分に記憶に残る旅となりました。

リンツを午後4時に出るバスに乗って、最寄りのバス停から急坂を5分ほどのぼると入口の門に到着します。観光シーズンを外れた日曜日の夕方でしたので、修道院は閑散としていました。ここに2泊しました。院内の一角に設けられた2階建てのゲストハウスです。





修道院のゲストハウスと聞くと、私なぞは次の瞬間に、仏教の精進料理であるとか、座禅体験などといった世俗に向けた一種の観光サービスのようなものの存在を想像してしまうのですが、ここの施設は、単に泊まらせてくれるだけの話で、さっぱりとしてほかに何があるわけでもありません。同時に、たいへんさばけていて私のような異教徒の東洋人が泊まりに来ても鷹揚に受け入れてくれますし、修道院の中には商業レストランが一軒営業をしているのでもあります。そういった意味では、修道院の中といっても普通の宿泊施設です。

ドイツ、オーストリア修道院というのは信仰の中心であるばかりではなく、地域の教育や産業技術開発センターのような役回りを果たしてきたところがあり、ところによってはビールの醸造をしたり、そもそも外に向かって開かれている性格があるのでしょう。そんなところが感覚的に分かったのはひとつの収穫でした。

ただ、商業施設ではないので、やはりサービスには限りがあります。例えばですが、修道院とメールでやりとりをし宿泊予約をした際に「受付はレストランに来て、私Fを呼んでください」とあったので、その通りにレストランを目指していくと鍵がかかっているわけです。途方に暮れるという気分にはなりませんでしたが、「やれやれ」とは思いました。

巨大な修道院には人気がなく、レストランの前でスーツケースを横にぽつんと立っていても、何事も進む風ではありません。少しうろうろすると「Verwaltung」(日本語では本部とか事務所の意味になるのでしょうか)という看板がかかったドアを見つけましたので、そこを開けて中に入り、パソコンを前に仕事をしていた中高年の事務員さんらしき二人を見つけました。一瞬、なんだこいつはという表情が返ってきました。「Eさんに会いたいのですが。ゲストハウスを予約しているのですが、レストランに来いと言われたのに誰もいなくて」と言うと、「いないの?」と言って、どこかに電話をしてくれましたがよく分かりません。
結局そのうちの一人のおじさんが一緒にレストランまで行ってくれました。「なんだ、ここに守衛のところに来いって書いてある」と指差します。店の玄関に掲げている黒板には上に「お客様へ、18時に開けます」その下に「お客様へ、鍵は守衛へ」とドイツ人の達者な文字で書かれていたのでした。これでは私には分からない。守衛がどこにいるのかも知らないですし。





でも、ゲストハウスは廊下も部屋も美しいものでした。




ただ、さすがに修道院のゲストハウスですから、テレビやインターネット接続などはありません。不便です(その代わりにレストランにだけはWi-Fiの無料接続が用意されていました)。

また、二日目の朝には、バスルームの電球がプチーンと音を立てて切れたりもします。外出の直前だったのでほおっていたら(ほおっていたらどうなるかなという興味もありました)、昼に部屋に戻った時にも電気は切れたままでした。ルームサービスの人はタオルを取り替えたり掃除をしてくれているのですが、気を利かして電球の交換をしてくれるなんてことはないわけです。結局お昼に事務所に出向き、電球が切れたのでなんとかしてくださいとこちらから頼みましたら、どこかに内線電話をかけて「ゲストハウス1階の4番の部屋のバスルームの電球がだめになったらしいんだけど」云々とひとしきり相談をし、「うちのエンジニアが対応しますから大丈夫です」などとしかつめらしいことを言います。このあたりの、役割がきちんと決められてしっかりとしてはいるけれど、からきし融通が利かないところがドイツ・オーストリアっぽいところです。でもウィーンやザルツブルクのホテルだと、さすがに、もう少し柔軟じゃないでしょうか。




という感じで何かが起こったりすることも含めて、とても新鮮で興味深い2日間でした。1日目は2階建て18部屋(だったかな)のゲストハウスの住人は私一人だけ。夜の窓の灯りでそれが分かるのですが、2日目もお客が入っていたのは私と隣の部屋の二部屋だけでした。ゲストルームは入口のドアと部屋の鍵二つを預けられて自由に出入りするシステムで、夜の修道院には人っ子一人見えません。修道院の静かな夜、静かな朝を存分に味わうことが出来ましたが、誰もいないところは怖くていやだという人には向いていません。




静かな2日間でした。