ブルックナーの風景(11): 聖フローリアン修道院の「大理石の間」

聖フローリアン修道院は、春から秋のシーズンには観光客向けにガイドツアーやオルガン・コンサートを開催しているのですが、私が出かけたのは3月でしたから、これといった催し物はなく、そうすると入れる場所、見学ができる施設は限られてしまいます。それはそれで仕方がないものと割り切って出かけたのですが、運がよい時もあるものです。前日お世話になった事務方の人に次の朝顔を合わせると「10時にアメリカ人の団体が来てツアーがあるのだけれど、英語でよければ参加しないか?」と言ってくれるのです。英語でよければどころではありません。私のドイツ語は片言のレベルですから、その方がよほど楽です。ありがたく参加させてもらうことにしました。





1時間後に指定された場所に行くと、40人ぐらいいたかな、若いアメリカ人たちが集まっています。その一人に「どこの州から来たの?」と訊いたら「テキサス」との答えが帰ってきました。テキサスから聖フローリアン修道院かあ、遠いなあと思いましたが、アメリカ人から見ると、極東の島国から来る方がよほど遠いでしょうね。
ガイドをしてくれた年配の女性に挨拶をし、彼らの後にくっつくようにして歴史的な図書室、大理石の間、聖堂地下の聖人たちのお墓とまわり、最後は思いがけずブルックナーが弾いた聖堂のオルガンを聴かせてもらうことも出来ました。ガイドさんは、現役時代は地元の学校の先生をしていた方だそうで、引退後に自分の楽しみでガイドのボランティアをしているのだそうです。いい人生だなと思いました。





彼らと「大理石の間」に行った話を書きます。これは聖堂を除くと修道院のなかでもっとも大きい空間で、1718年から1732年と長い時間をかけオーストリアやイタリアの建築家、名工たちによって作られた修道院自慢の建築物です。横幅15メートル、長さが30メートル、高さが15メートルという広さですが、天井画のおかげでサイズ以上に高く見えるのが特徴だとガイドさんが語っていました。名前の通り、人造大理石で作られた部屋で音響もいいのでコンサートにも貸し出されているとの説明です。





すると、テキサスの若者たちの引率をしていたおじさんが、ガイドさんに向かって「ここで歌ってもいいか?」って訊いているんですね。いったいどういう意味だろうと思ったら、こういうことでした。





彼らはテキサスの合唱団とその家族という団体だったのです。アメリカやるねえ。

また、この時になってようやく分かったのですが、かつて1975年に朝比奈隆と大阪フィルが聖フローリアンで演奏した場所がここだったのですね。石油ショックの後で予定通り資金が集まらない中、寄付を募ってやっと実現した大フィルの欧州演奏旅行の際に、この地で行ったブルックナー交響曲第7番の演奏は、録音され「聖フローリアンの7番」として朝比奈ファンのみならず多くのブルックナー好きに支持されています。第2楽章が終わった時に教会の鐘が遠くで鳴り始める、そのタイミングが奇跡だとファンが喜んだ録音です。その演奏会場にいるのだと、朝比奈ファンでは必ずしもない私はやっと気がついたのでした。

実際に行ってみて思ったのは、オーケストラのコンサートを行うことを考えると、ここはあまりに響きすぎるので金管のセクションや統制を取る指揮者はたいへんだっただろうなということであり、オーケストラのコンサートを行うことを考えると、ここはあまりに小さなホールであり、興行的にはたいへんだっただろうなということでした。

分かったことのもう一つは、今までブルックナーゆかりの聖フローリアン修道院で大フィルが演奏したという事実を基に、この演奏会を「奉納演奏会」と書いている文章を見ることもあったのですが、どうもそういう話ではなさそうだということでした。大理石の間は、ブルックナーが葬られている聖堂からは修道院の中でもっとも離れている南側にあります。したがって、奉納云々という話であるならば、演奏は聖堂で行うのが筋です。実際、それ以降に撮られたカラヤンウィーン・フィルの8番であるとか、ウェルザー=メストクリーブランドの5番であるとか、聖フローリアンでのライブ録音と銘打っているものを見ると、それらはみな聖堂で行われています。カラヤンのビデオを初めて見たとき、同じフローリアンの演奏会というのに、朝比奈さんのレコードはきらきらの会場の写真で飾られているのに、何故こちらは薄暗い場所で行われているんだろ、と素朴に疑問だったのです。

旅から帰り、朝比奈さんがこのときのことを書いた文章を読むと、次のフレーズがありました。

今度の日程中、リンツでの演奏会が市内のブルックナー・ホールでなくてこの寺院で催されると知らされた時、私は幸せに酔う思いであった。
朝比奈隆著『楽は堂に満ちて』より)

ブルックナー・ホールとあるのは、ドナウ川沿いにある大きなコンサートホールの「ブルックナーハウス」のことだと思います。調べてみると開館が1974年3月で、朝比奈さんと大フィルが演奏をした前年のことです。

とすれば、当時の状況はこういうことではないでしょうか。事務方は収容人員1500人のホールでの演奏会を当初は考えていたが、出来たばかりのホールの予定はけっこう埋まっており、日本くんだりから来る小さなオケの枠を確保するのは容易ではない。そこで、窮余の一策、聖フローリアン修道院の大理石の間がコンサート利用に解放されているので、そこを使うことになった。朝比奈さんや大フィルの楽員さんにとっては願ったり叶ったりだったが、数百人しか入らないホールでのコンサート、財政的には厳しかった……。

以上は推測にすぎませんが、本格的に聖フローリアン修道院を会場にブルックナーへの“奉納”コンサートを企画するのであれば、場所は聖堂でなければ格好がつきません。もちろん、だからといって、そのことで音楽それ自体や、『聖フローリアンの7番』の価値が毀傷されるわけではありませんが、へんな尾ひれをつけた内輪褒めはいただけないと思います。

宿泊したゲストハウスの机の上に資料が用意されていました。それによるとMarmorsaal(大理石の間)は、5月末より10月初めまで、コンサート、晩餐会、歓迎会の用途で利用ができ、コンサート開催時の席数は550。現在の賃料は1650ユーロだそうです。1ユーロ=130円で計算すると、約21万円です。

十分な間合いを持たせて第2楽章の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう1つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の音が白い雲の浮かぶ空に消えていった時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。
朝比奈隆著『楽は堂に満ちて』より)







楽は堂に満ちて―朝比奈隆回想録

楽は堂に満ちて―朝比奈隆回想録