謎のAEIOU

前回のエントリーに「AEIOU」について一言だけ触れ、ついでに写真を掲載したところ、西洋史に詳しい近藤さんが目ざとく見つけてコメントを頂きましたので、「AEIOU」とフリードリヒ門について、もう少し付け加えておくことにしました。

15世紀半ばに世界に冠たる神聖ローマ帝国の皇帝となったフリードリヒ3世は、そもそもはハプスブルク家の傍流の家柄で、インスブルックに生まれてオーストリアの小さな国の領主すぎなかったのですが、いつの間にやら皇帝に登りつめ、勝ち目のない戦争を回避し続けてハプスブルク家の栄華を決定づけます。
このあたりについては日本語のウィキペディアには散々な書かれ方をしていますので、それを直接お読みいただくほうが面白いと思います。

最初はケルンテンなどわずか3州の貧しい領主であり、決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われていた。フス戦争で混乱に陥ったボヘミアオスマン帝国から防衛する任をオーストリア大公に託すという理由のほか、御しやすい人物というのが、選帝侯から皇帝に選ばれた理由であった。数多くの蔑称を身に纏い、死後は「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られた。まともにぶつかれば歯の立たない強敵が大勢立ちはだかったが、辛抱強く敵が去るのを待ち、選帝侯の予想に反して53年もの間帝位を占有し続け、ハプスブルク家の帝位世襲を成し遂げた。

フリードリヒ3世は一見、凡庸な君主であったが、敵対者はことごとく都合良く死亡し、長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の繁栄の基礎を築き上げた。これには暗殺説がつきまとうほどである。
(Wikipedia「フリードリヒ3世(神聖ローマ帝国皇帝)」より)


はたして「一見、凡庸」と伝えられる人物が本当のところ凡庸なのか、そうではないのかは、その人物のなしえた業績で判断するのがもっとも簡単で理にかなっています。これは、まさにリンツの土地にゆかりのあるアントン・ブルックナーが音楽の世界で示しているとおりです。

その意味では、日本語のウィキペディアが書いている「長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないまま」何事かをなしえたというのは、少々話を面白くしすぎではないか、あるいは俗説に寄り添いすぎているのではないかと疑ってかかりたくもなる部分です。

実際、同じウィキペディアでも英語版は、まさに彼がなしたことを端的に紹介しています。つまり、彼は歴史上、ローマ法王から直接王冠を与えられた最後の神聖ローマ皇帝であり、「大特許状」によってハプスブルク家神聖ローマ帝国の皇帝として君臨し続けることを制度化した人物なのです。ウィキペディア英語版は、彼は為政において躊躇しがちな性格で意思決定が遅く、過去の研究ではそれはもっぱら性格的な欠点と考えられていたけれども、現在は領土争いを有利に導くための待ちの戦術のあらわれと見ている、と述べています。たぶん、そうなのでしょう。だって、そのほうが、よほど真実らしい気がしますから。

人嫌いで、お妃も子供も遠ざけがちだったと同時代の証言が伝えているようですが、これもどの程度本当なのか、よく分かりません。よく分かりませんが、変り者の傾向が強かったのはおそらく間違いないらしく、その証拠が、謎の「AEIOU」です。これはフリードリヒ3世が建造物や身の回りの品などに残した文言ですが、その意味を人に明かしませんでした。ドイツ語版ウィキペディアによると300を超える解釈があるそうで、そこにはオーストリアの歴者学者が整理した代表的な解釈がいくつか紹介されています。

  • Austriae est imperare orbi universo (es ist Österreich bestimmt, die Welt zu beherrschen)
  • Austria erit in orbe ultima (Österreich wird bestehen bis ans Ende der Welt)
  • Austria est imperium optime unita (Österreich ist ein aufs Beste geeinigtes Reich)
  • Augustus est iustitiae optimus vindex (der Kaiser ist der beste Beschützer der Gerechtigkeit)
    • 皇帝は正しさの最良の保護者
  • Alles Erdreich ist Österreich untertan
  • Austria est imperatrix omnis universi (Österreich ist die Beherrscherin der ganzen Welt)

この「AEIOU」、建物では、リンツ城のフリードリヒ門のほかに陸軍士官学校となっているウィーナー・ノイシュタット城、グラーツ城など限られた場所に残されているようです。

リンツ市のフリードリヒ門の上の有名な、謎めいた文字が見えてきた。おそらくここから遠からぬところ―静まり返った宮殿と、おごそかな紋章が並び立つ旧市街の十番地あたり、当地でみまかったフリードリヒ三世が、身の回りのものや自分の建物に刻ませていた文字である。つまり、A.E.I.O.Uの五文字。(クラウディオ・マグリス著『ドナウ ある川の伝記』p.166)






A.E.I.O.Uの略語をめぐっては、あまり麗しくない解釈が多いが、いわばポストモダン的記号ともいえる。傲慢さの標識、あるいはわれわれの脆い、みずぼらしい自我をしるしづける間接的な防御策ともなろうものだ。そうした生きのびるための壮大にして切ない作戦は、わたしにはしばしば目立たないながら、それだけなおのこと効果のある防御の盾のように思えたものだが、この昨夜はそれが刺すような寒さとともに現れた。
(クラウディオ・マグリス著『ドナウ ある川の伝記』P.167)





他人には理解できない、しかし本人にとっては意義のある文言を人々が目にする場所に記したフリードリヒ3世の行為を、イタリアの文学者クラウディオ・マグリスは、「生きのびるための壮大にして切ない作戦」と定義しているのですが、私にとってのブログも「みずぼらしい自我をしるしづける間接的な防衛策」という意味では、フリードリヒ3世の行いの延長線上にあるのではないかと思ったりもします。壮大さはかけらもありませんが、壮大さを必要とせずとも皇帝の真似事を出来るのですから、よい時代に生きているものだと思います。

門の上は石組みの通路になっており、裏側から眺めるとこんな感じでした。





その先からはリンツ城と悠然と流れるドナウ川がきれいに眺められます。