ブルックナーの風景(9): リンツから聖フローリアンへ

ブルックナーリンツで12年を過ごし、二つの教会のオルガニストとして確固たる地位を築きました。さらにジーモン・ゼヒターとオットー・キッツラーから理論を学んで、ヘ短調の習作交響曲交響曲第1番を作曲し、本格的に交響曲作家への道を歩み始めた重要な街であり、重要な時期であった訳ですが、それに釣り合うような逸話らしい逸話はほとんど残されていません。これはブルックナーが言葉の人ではなく、ひたすら音楽の人だったからであるようです。そういった意味では、ほんとに見事につまんないおじさんだなと思いますし、だから存命の時分から蔑まれるふうでもあったのでしょう。ただ、音楽家は言うまでもなく音楽で評価されさえすればよいのですから、言葉に出会わないからと言って批判される筋合いはこれっぽっちもありません。




言葉は落ちていない訳ですが、リンツに来て「AEIOU」(世の終わるまでオーストリアの没落なし)の文字を刻むフリードリヒ門を通ってフリードリヒ三世が15世紀に住んだ王城に登り、大聖堂を始めとする市街地を望むと、ブルックナーの野心が見えるようでした。彼が辿り着いたウィーンの絢爛豪華さには到底及ばないにせよ、ここは彼が生まれた郊外の村や、若いころを過ごしたザンクト・フローリアンとは比較のしようのない大きな都市です。若いブルックナーは、この先に、ウィーンやザルツブルクなどより大きな音楽都市への進出を願っていました。





リンツへの滞在は、朝の10時に着いて16時のバスに乗るまでの短い時間でした。旅はこの後リンツの郊外、最後の目的地であるザンクト・フローリアンの町と、その中心に聳える修道院を目指します。
リンツの北に位置するペストリング城に登り、春霞のドナウ川リンツの街を望みました。目視は出来ませんが、ちょうどリンツの街の向こう側にこれから向かうザンクト・フローリアンがあるはずです。





都心のマックでハンバーガーを食し、Wi-Fiで日本と連絡を取りあった後に駅に戻り、コインロッカーからスーツケースを取り出してザンクト・フローリアン行きのバスを待ちました。