ブルックナーの風景(2): ヘス小路7番地

ヴェーリンガー通り41番地からちょうど1キロ、都心の方向に向かって歩くと、ウィーンの旧市街の北西の端にあるショッテントールに着きます。今までウィーンには2度来ましたが、最初に学生の時に来た時には国立歌劇場とその近辺しか歩いていないし、2度目は仕事で郊外のオフィス街中心でしたので、ウィーンは観光客がそぞろ歩く都心の狭いエリアしか知識がありません。ショッテントールのトールというのは英語のゲートですから、そこに門があるのかと思っていました。

今回、ちゃんと調べてみると、そこは150年前に、時の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世がウィーンの市街をぐるりと取り囲んでいた街の壁を取り払う大規模な都市改造を行った際に、壁もろとも門を取り壊し、それ以来「門」という名前だけが残っている場所だったのです。今もいくつかの市電や地下鉄が交差する街の北西の要所ですが、昔からそうした色彩を持つ場所だったようで、ブルックナーは最初にウィーンで住んだヴェーリンガー通り41番地から、この一等地に引っ越して1877年から死の1年前の1895年、70歳まで住んだのでした。

私は書籍やウェブで手に入るヘス小路7番地(Heßgasse 7)という住所を頼りにそこを訪れたのですが、ショッテントールの賑やかな交差点から目と鼻の先のリング通りに面した巨大な建物がそれらしいと分かりました。今は立派なホテルやレストランなどの企業が入る高級雑居ビルですが、どうやらその5階のどこかにブルックナーは住まっていたらしいのです。ヴェーリンガー通りの前居に比べると、都心というべきロケーションだし、大通りに面しているし、見るからにかなり格上の物件です。





5階というと最上階なんですね。70歳になる身で昇り降りは大変だったろうな。





ブルックナーに関する逸話で、おそらく最も有名なものの一つが、交響曲第3番初演が楽友協会の大ホールで行われた時の話です。今のウィーン・フィルの前身である楽友協会オーケストラが演奏し、作曲者が指揮を取った演奏会は始まる前からお客さんが帰り始め、終わった時にはブルックナーの弟子以外には数えるほどの聴衆しかなく、彼はがっくりと肩を落としたと伝えられています。西洋音楽史上に残る大失敗の記録は彼がこの建物に住み始めた1877年。ブルックナーは傷心を抱えて、この5階まで階段を登ったのでしょうか。