ブルックナーの風景(3): ベルヴェデーレ宮殿

ウィーン旧市街のすぐ外に広がるベルヴェデーレ宮殿は、かのプリンツ・オイゲンが18世紀初頭に作らせた夏の離宮で、今回訪れた場所の中では美術史博物館とともに最も観光地らしい観光地でした。どんよりと雲が垂れ込めた朝の9時少し前に宮殿入口に着くと、開館を待つ韓国人観光客の大団体がおり、賑やかにおしゃべりをしています。スペイン語やスラブ系の言語が聞こえ、100人を超える韓国の団体には到底及びませんが、それでも目立つ日本のグループも一つ、二つと数えられます。




何故ここへ来たのかと言えば、ブルックナーが死ぬまでの1年少々をこの宮殿の一角で過ごしたからでした。足腰が弱り、5階にある自宅からの外出が難しくなったブルックナーは、周囲の人々の配慮と時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の計らいで、ベルヴェデーレ宮殿に住居を与えられたのでした。ブルックナーが戸口で歓談をする有名な写真があります。これがベルヴェデーレで撮られたもののようです。5人の真ん中に立つのがブルックナーです。


宮殿のチケット売り場で「アントン・ブルックナーの住んでいた家ってどこなんですか?」と尋ねると、係のお姉さんは、そのことをはっきりとは知らず「あちらの方だと思うんですけど」と言葉を濁しながら教えてくれました。アルバイトの人だったのでしょうか。実際には尋ねるまでもなく、広大な敷地の中で宮殿以外に建物らしい建物といったら、これしかありません。宮殿の右側、木の後ろに見える建物がそれでした。








もっと小さい建物を想像していたのですが、どうも奥行きが半端ではなく、とんでもない大きさです。そして、ありました。ブルックナーの記念プレート。「この家でアントン・ブルックナーが1986年10月11日に逝去する」と記述されています。








帰宅して写真を見て気がついたのですが、ブルックナーが歓談しているのは、壁に凹凸がある玄関で、私が見た家とは外観が異なっています。ベルヴェデーレ宮殿は斜面を利用して作られているため、私が見た側は実はこの建物の2階で、彼が住んでいたのは1階だったようです。さらに、ここは細長い建物の短辺にあたる部分で、反対側から見たら、こうなっていて、かなりでかい。




この建物はなんだったんだろう? 宮殿の一角にあるのだから、官吏や使用人が住んでいたのかしらと自問していたら、建物の前に説明書きがありました。なんと、ここは一種の動物園。インドなどから連れてきた孔雀や鶴など珍しい鳥を飼育し、鑑賞するただったのだそうで、飼育係の住処が1階だったらしいのです。ブルックナーがここ住まう100年以上前の話ですが、ウィーンの宮殿には、王様だけではなく、歴史に名を残す作曲家が住まい、また、孔雀や鶴や白鳥が飼育係とともに住んでいたというのは、なんとも不思議なイメージを発散させるものです。現在、隣の宮殿は美術館になっており、かの有名なクリムトの『接吻』が飾られています。そしてそこは、ナチスによるオーストリア併合によってドイツ第三帝国に組み入れられたオーストリア(『サウンド・オブ・ミュージック』の世界ですね)が、戦後、英独仏ソ4カ国の共同管理(これは『第三の男』の世界)から解放され、永世中立を誓った場所でもあるのです。宮殿の床には、そのことを書き記した記念プレートが埋められていました。




ブルックナーに導かれて初めてここに来ましたが、幾重にも重なる歴史のイメージの中で、宮殿が覚えている作曲家の思い出はあまりに微かであるように感じられました。