ブルックナーの風景(1): ヴェーリンガー通り41番地

今回の旅ではブルックナーの痕跡を尋ねるのをテーマにしました。このブルックナーというのは、私が好んで聴く作曲家というだけのことで、他の皆様にとっては「だから何なのよ」の世界です。たぶん、このエントリーには、「ブルックナー、ウィーン」などと検索して覗きに来る同好の士がいらっしゃる可能性はあり、その方々にとっては、もしかしたら少しは面白いとは思いますが、その他の皆様にとっては、この「ブルックナー」の文字の代わりに、「リスト」が入ろうが、「メッテルニッヒ」が入ろうが、「キャンディーズ」が入ろうが、なんにも変わらないんだと思います。本当に何の意味も、何のひねりも、起承転結もありませんので覚悟しろよ、てなもんです。

で、前回のエントリーの続きみたいなところから始めますと、ハイリゲンシュタットに出向いてベートーヴェンゆかりの家を見たわけですが、そのまま徒歩で南下し、シューベルトの生家がやはりウィーン市の博物館になっているのを見て、ここはベートーヴェンの『ハイリゲンシュタットの遺書の家』よりもさらに感慨が薄いままに、またさらに南下し、ウィーン中心街を目指したのでした。

というのも、ベートーヴェンシューベルトの一本道の先にブルックナーのポイントがあったからで、後でグーグルマップで計算してみたら、だいたいベートーヴェンシューベルトブルックナーは4キロの散歩道でした。かつてウィーンの郊外で、「田園交響曲」の着想を得た田舎というイメージのハイリゲンシュタットって、こんなに都心に近かったのか、ウィーンって当時はそんなに小さかったのかと驚きました。昔、ベートーヴェンは半日かけて馬車でハイリゲンシュタットに行きましたといった記述を読んだ覚えがあるのですが、歩いてみて、そんなの嘘だろと思いました。いくら昔の馬車がのんびりと走ったとしても、ウィーンが今よりも何倍も巨大でないかぎり、参勤交代じゃあるまいし、半日なんてかかるわけありません。そのハイリゲンシュタットは、今では森の中ではないですが、でもやはり十分に都心からは離れた静かな雰囲気ですから、いまだにウィーンは小さな街なのだなと思います。ちなみにウィーン市の人口は2012年で173万人だそうです。

ブルックナーゆかりの場所は、ベートーヴェンシューベルトのように博物館になっているわけではありません。ただ、そこに彼が住んでいたという記録が残っている場所があるというだけのことです。ヴェーリンガー通り41番地という住所で、ブルックナーの伝記的な記述を読むと、ウィーンに出てきた彼は、 1868年から1876年までこの建物の3階に住んで、交響曲第2番から5番までを作曲しました。

これは北側からウィーンの都心方向にヴェーリンガー通りを見たところ。右手前のアルネ=カールスゾーン公園の向こう側2棟目のビルがブルックナーの住んでいたヴェーリンガー通り41番地の建物です。




ここがそう。この2階で交響曲第3番、第4番、第5番といった名作が書かれたのかと思うと、感無量とまでは言いませんが、ウェブで住所を調べたりしながら、物好きにもよくここまで来たなという感慨にはつながりました。本当に、ここを見たいと思って、ヴェーリンガー通り41番地がどんな風景なのかを知りたくてウィーンくんだりまでわざわざ来たんです。こういう演出をできると人生はそれなりに楽しくなるなどと言って格好つけたくなりますが、実際には今回のウィーン旅行は二の足をかなり踏みました。そうしたことも重なっての感慨がありました。





41番地の大きな扉には「製本屋」という看板が掛かっていました。こんな立派な、由緒正しきビルに製本屋さんなんかが入っているのかと意外の念を覚えました。




ここにはブルックナーの記念プレートがあるとウェブで調べてきたのですが、そんなものは見つかりません。私が見落としたのかもしれませんが、いったいどこに掛かっていたのか。薄汚れた外壁にいたずら書きが目立っていたばかりです。いずれにせよ一般にはほとんど顧みられることのない、知る人ぞ知る一部オタク向け史跡です。ただ、つくづく実感したのですが、200年前のベートーヴェンシューベルトの家は博物館となって旅行者によく知られているのに、実際には形ばかりが整えられ、偉人たちの痕跡を感じることはほとんどできないのに比べて、100年少々前のブルックナーの時代は本人に関する多くの記録が残っていることもあり、外観を見るだけでもその住居にはリアリティが色濃く感じられる。そんな風に思いました。




ブルックナーは3階のどの窓から外を眺めていたのでしょう。