ハイリゲンシュタットの遺書の家

今回の旅には、観光旅行なりにテーマをつくって行ったのですが、ベートーヴェンは、言わばおまけでした。おまけでしたが、ウィーンに出かけるのが3度目なのに、これまでベートーヴェン縁の地を訪ねていないのは、音楽好きとしてはもったいないというか、宿題をこなしていないというか、ともかく一度は行ってみるべきだろうと、ウィーンのかつての郊外であるハイリゲンシュタットの、ベートーヴェンが住んだ家を回ってきました。ちょうどウィーン到着の夕方に買った公共交通機関共有の1日乗り放題のチケットが残っており、これを使ってハイリゲンシュタットまで行こうと考えた次第でした。

ハイリゲンシュタットはウィーンの北側にあって、かつてはウィーンの富裕層が別荘を構える静かな森のリゾートタウンだった土地ですが、ウィーンが都市として拡張すると、19世紀末にウィーン市に編入されています。ベートーヴェンが19世紀のはじめにこの地に来たのは、悪化する耳の治療のために、当時は湧出していた温泉の成分が有効であるとする主治医のヨハン・アダム・シュミットの勧めがあったからでした。

引っ越し魔だったベートーヴェンはハイリゲンシュタットでも3軒の家に住まっています。行ってみてこの3軒があまりに近いので驚きました。実際に中に入ったのは2軒目に訪れた家で、ウィーン市が博物館として管理しています。ここが史跡としての価値があるのは、ベートーヴェンが住まっていただけではなく、有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いた家だからです。『ハイリゲンシュタットの遺書』は、ベートーヴェンが耳が悪くなることに絶望し、身内宛にしたためた遺書ですが、それは現実には投函されることなく、彼がが亡くなった後に身の回りの品の中から見つかったのでした。

春の観光シーズンにはまだ早い、雲が垂れ込めた寒々しい朝でした。観光客はおろか人影自体が少なく、公立小学校の校庭で小さな子どもたちが元気よく遊んでいるのを目にしたのとオレンジ色の巨大なゴミ収集車が甲斐甲斐しく働いていた他に町には動きはなく、通行人は数えるほどでした。『ハイリゲンシュタットの遺書の家』は大きな家屋の門をくぐり、小さな中庭の先にありました。階段を2階に登り、入り口のドアを開けると、中年の女性が陰気臭くひっそりと座っていました。そこで4ユーロの入場料を支払って左脇の天上が日本の家屋よりも低い圧迫感のある小部屋に入ると、その先に同じ大きさの部屋がもう一つあり、『ハイリゲンシュタットの遺書の家』はたったそれだけの小さな空間でした。




『ハイリゲンシュタットの遺書』のコピーなどの文書の他に、かの有名なデスマスクが置いてありました。この家については、ほとんど何も事前知識を仕入れずに出かけましたから、「デスマスクがあらぁ」とびっくりしました。また、ベートーヴェンの髪の毛も展示されていたりしました。ただ、ベートーヴェンがここに住んでいたのかと、いま一度その有り難みを反芻してはみたのですが、きれいに整頓され、胸像や資料が並べられただけの部屋からは惻々とした先人の気配が立ち上がってくる感覚はありません。かつてはベートーヴェンその人がいた場所も、200年以上の月日が経ち、博物館の名がついてしまえば、それはそんなものでしょう。




小さな博物館はぐるっと見て回るのに多くの時間はかかりません。せいぜい10分もいたかどうか。出口に向かいかけ、その時最初の部屋の壁面にドイツ語と英語で掲げられたこの家の説明文に初めて目が止まりました。何気なく目にすると、文面の中には思いもよらないひとことが書かれていました。

「最近の研究によれば、実際にベートーヴェンがこの家には滞在していたのかは確認されていない」

たしか、そんな文章でした。遺書が書かれた時期にハイリゲンシュタットにいたのはいたが、別の家だった可能性があるということのようです。あらためてウェブで調べてみたのですが、『ハイリゲンシュタットの遺書の家』についてはドイツ語のウィキペディアに次のように書かれていました。

■Forschungen
Im Jahre 1890 fand Josef Böck, Ehrenmitglied des örtlichen Männergesangvereins das Haus. Nachdem in Bonn Beethovens Geburtshaus als Museum gegründet worden war, setzte auch in Wien die Forschung über Beethovens Wohnstätten ein. Das Haus wurde 1967 von der Stadt Wien angekauft. Neuere Forschungen von Walther Brauneis ergaben, dass der Wohntrakt, in dem sich heute eine Beethoven-Gedenkstätte des Wien Museums befindet (straßenseitig ergänzt durch jene der Wiener Beethoven-Gesellschaft), erst 1807 nach einem Großbrand erbaut wurde, also keinesfalls authentisch sein kann. Es gibt aber auch Hinweise, dass Beethoven im Sommer 1802 in einem anderen Haus logiert haben könnte.

(■研究結果
1890年、当地の男声合唱団名誉会員だったヨーゼフ・ベックがこの家を発見した。その後、ボンでベートーヴェンの生家が博物館となった後にウィーンでもベートーヴェンの住居について調査が始まった。この家は1967年にウィーン市によって買い取られた。ヴァルター・ブラウナイスによる新しい研究によれば、このウィーン市博物館が存在する住居翼部(道路側はウィーン・ベートーヴェン協会によって補修されたものである)は、1807年の大火事の後に建築されたものであり、したがって何らの確証もない。ただし、ベートーヴェン1802年の夏に他の家に滞在した可能性はあるとの指摘はある。)

http://de.wikipedia.org/wiki/Haus_des_Heiligenst%C3%A4dter_Testaments

事前にベートーヴェンの家の情報を得るにあたっては、ウェブ上でウィーン市の手になる日本語の観光案内を見たのですが、ウィーン市は4ユーロを払って博物館に入場した者にはそのことを教えても、まだウィーンに到着する前の観光客予備軍には情報の出し惜しみをするように決めたらしく、観光ガイドは実に簡素な説明だけで、どこにもそんな重大な事実は書かれていません。ちなみにウィキにはドイツ語版以外に『ハイリゲンシュタットの遺書の家』という項目はなく、この情報は広く拡散する風では今のところないようです。

http://www.wien.info/ja/music-stage-shows/city-of-music/beethoven-memorials

私がウィーン市観光局の担当者だったら、そうですねえ、やっぱりそのひとことは書かなかったかもしれませんが、もし日本でそんなことをしたら、どこからか確実に批判と非難の声が上がり、吊るし上げられてしまうことでしょう。

偉大なウィーン文化は、とめどなく人生を抽象化して、その非現実さを露呈させる。情報を制御して、みずからの演出にとりかえる。アルテンベルクやムージル、この大いなる同時代人たちはよく知っていた。実存というもの、自分の存在ですら、再生される無数のコピーから区別するのが、いかにむずかしいか。
(クラウディオ・マグリス著『ドナウ ある川の伝記』P210)

実存が再生される無数のコピーから区別できないのが当たり前であれば、歴史的事実が無数のコピーの中に埋もれて、さらに現実から遠ざかるのをとどめおくことができないないのは、なんの不思議もありません。20世紀初頭の文化人たちの末裔たるウィーン市の役人は、そのことをよく知っていると言うべきでしょう。

ウィーン人ではない私は、説明文を読んで軽くうろたえてしまいました。そして家を出て行く間際に受付に座っている女性に話しかけました。
「今日ここに来るまで、この家にベートーヴェンが実際にはいなかった可能性があるなんて知りませんでした」

風采の上がらない東洋人の客一人しかおらず、退屈して黙りこくっていた女性は、急に生き返ったようになって強い調子でまくしたてました。
「そうなのよ。でも、学者の言うことなんて10年毎に変わっているんですからね。それをいちいち真に受けていたても仕方ないでしょ。私たちは絶対にベートーヴェンはここに住んでいたと信じています」

つまり受付の女性も、再生され続ける実存のコピーを演出する正真正銘のウィーン人だったようです。