観光旅行客の頼りなさについて

純粋な正真正銘の観光旅行をするのは、学生時代以来初めてのことでした。純粋な、というのは、本当に観光を目的に、それもたった一人でどこかに行くという旅のことを、ここでは便宜的にそう呼んでいます。

その土地に誰かが待っていると、純粋さには但し書きが付きます。いや、但し書きが付くどころか、それは本当の意味での観光目的にはもうならないですね。私は数年前に生まれて初めて北海道を旅行しましたし、90年代には、ミュンヘンに遊びに行きました。それから、これも印象深い大分への旅もありました。10年に一、二度といった間隔でそうした旅をしていますけど、北海道の時には『記憶の彼方へ』の三上さん(id:elmikamino)にホストを務めていただき、ミュンヘンは当地の大学にいらしたY氏ご夫妻の呼びかけに応じて出かけたのでした。大分には小野さん(id:sap0220)が待っていました。こうなると、旅は観光と言ってもホストの人となりの影響の下に完全に置かれ、結局はホストとの人間的なつながりを楽しむものとなります。

間違いなく旅の中でもっとも楽しいのはこの種のものであって、非日常の風景は交歓の楽しさによって記憶にとどまり続けることになります。現地で待っいていただく喜びや安心感、様々な事物に関心を誘導してもらえる有り難さ、その先にある歓談の楽しみなど、誰かを尋ねる旅は、名所旧跡をただめぐるだけの旅行とは比べられないほどの豊かさを持っています。名所旧跡ではない、あるいは自分にとってまったく知らない土地をめぐる旅、例えば僻地への冒険などは、この知人に会う旅とは異なる楽しさを備えた別種の価値でしょうが、だんだん年を取ってくると、そういう旅に出かけるような踏ん切りはつきません。

兎にも角にも、今回は正真正銘の、誰も待っていない、観光地を周る旅でした。その結果として何を思ったのかを書きます。これでよいのかという変な不安感です。それは企画の段階から頭をもたげ、行きの飛行機の中でもっとも膨らんだのでした。仕事に行くのでもない、誰かに会いに行くのでもない、行ったところでするのは「観光」って、そんなんでほんとに楽しい? 行く価値ある? それなりのお金をはたいて、などという反語めいた観想がどんよりと漂う時間帯がありました。

この不安はやはり間違いではなかったです。その気持ちが結果的に、前回書いた「風景よりも食事」みたいな話に転化します。名所旧跡見物はそれなりに楽しいですが、その楽しさは単発的で長続きしません。いや、また美しい風景、印象的な事物を見にどこかに出かけたいという気持ちはありますが、やっぱり大枚はたいて出かけることと天秤をかけると、この持続のありなしは意思決定に大きな影響がありますね。もし私がお金持ちだったら、しょっちゅうあちこちに行きたいところですけど。

最終的に残るのは何か。それはやはり人との交流以外にはないように思います。今回は、交流と言えるほどの交流はほとんどありませんでしたので、旅の通信簿としてはほどほどの結果でしたが、それでも小さなやりとりが個人的な記憶のポケットに残ります。街頭で出会ったいくつかの眼差しとともに、それらは旅人の心の中で発酵する何かを宿しているように思うのです。